現代日本の彫刻家たち(1961-図録)
岩城 次郎
宇部市常盤公園の湖畔の一隅に拓かれた約2,000坪ばかりの野外を主会場に、それに隣接した遊園地を第2会場にして、我国現代を代表する60点余の抽象、具象の彫刻が列べられています。このような催しは都市としては我国では初めてのことであり、規模の宏大さに於てもまた、最初のことです。これ等の彫刻群は、あたかも、檻から放たれた生きもののように、生き生きとした表情をたたえて、ある物は草むらに、ひそやかに息づき、ある物は真夏の太陽に向って咆哮しているようです。
日本の現代彫刻は明治の初め工部美術学校の開設によつてラグーザが招かれイタリー風彫刻が導入きれたことに初まりましたが、僅か数年で同校が閉鎖されたことと、美術界を襲った国粋主義運動の嵐のために、せつかくの移植も根づかずして終りました。その後、明治の終り頃から先ず荻原守衛、高村光太郎によってロダンが紹介され、次いで大正5年ロダンに直接師事した藤川勇造が帰朝して彫刻の芸術性と新たな発見がもたらされ、引きつづき大正の末年にはフランスからブルデルの影響を受けた武井直也、清水多嘉示等が帰って新風を送りこみました。しかし我国の彫刻家達はブルデルやマイヨールの様式を摸倣しただけで近代彫刻の精神を理解しなかったし、また高村や藤川等の先覚者も良き後継者を得なかったことで、今日につながる彫刻の生きた伝統と歴史を形成することができませんでした。それからいま一つの事情は彫刻の社会的効用の面で、それへの需用は床の間の置物の延長のような飾り物としてか、或いは国家に功労のあった人が死しては神格化されると言うこの国特殊の理念に通じた銅像として安置されると言ったことで、日々の営みの中に哀歓を繰り返す社会大衆の暮しの場との間に生きたつながりを持たなかったと言うことも考えられます。今日の造形芸術は作家の個性の奥深く秘められたオブジェを表現することであり、そのオブジェの投影である作品の生命を構築し描くことであるといわれています。このような今日の芸術の課題にこたえるためには単に外形の物真似では全く無カの証でしかありません。
作家が個性として真実に現代に生きることが明日の歴史へのつながりを特つことだし、ここから今日の生きた歴史が造られると思います。このたびの野外彫刻展に参加した16名の彫刻家達はこのような意味で現代の我国の彫刻を代表する人々であり、明日への伝統に生きる作家達でしよう。しかし歴史への責任は作家達だけに帰すべきでなく、これを取りまく我々が失った美を自分たちの生活の中に取り戻す意欲の問題でもあると思います。