UBE BIENNALE

現代日本の彫刻(1969-図録)

三木 多聞

近年日本の彫刻がめざましい活気を帯び、隆盛になってきたことは、これまでもしばしば指適されてきたし、今や誰の目にも明らかであろう。彫刻に関する国際展を含めた大規模な展覧会や催しが頻繁に行なわれるようになり、彫刻美術館も少数ではあるが増えつつある。このようなことは、日本に限らず国際的にも共通にみられる傾向であるが、近年まで彫刻の層の稀薄であった日本ではとくに際立ち、また彫刻それ自身も従来の銅像や置物ら多種顛な造形へ大きな変貌を遂げつつある。このようなさまざまな変化は、恐らく十年ほど前までには想像もできなかったほどに急ピッチで進められている。

彫刻の大きな変革期に当って、ここではすでに四半世紀に達しようとする第二次大戦後の日本の彫刻の足どりを、めざましい飛躍を遂げた60年代の動きを中心に概観することにしよう。

明治期に導入された洋風彫刻術、とくにヨーロッパ彫刻のもつ迫真的写実性を目標としてスタートした近代日本の彫刻は、大勢としては克明な外形描写に終始し、明冶末以来ロダンに触発された荻原守衛、高村光太郎らによる近代写実主義も一部で行なわれたが主流にはなり得ず、その教典となったのはロダン、ブールデル、マイヨール、デスピオらであった。また戦前の二科会にはザッキン、アルキペンコらの立体派彫刻が展示されたことはあるが、立体派や未来派、あるいはブランクーシにはじまる近代彫刻が展開する素地は、昭和戦前期までの日本には全くといっていいほどなかったのである。このようにヨーロッパ近代彫刻と大きな落差をもってはじめられた戦後の日本彫刻が、漸く敗戦の混乱と昏迷のなかから再出発した時、その基調となったのはやはりデスピオあたりまでの流れを汲む近代写実主義であった。それに対して戦前ほとんど試みられなかった抽象彫刻も漸く広範囲に行なわれるようになったが、はじめのうちは幾何学的あるいは構成主義的な要素の強い半抽象ともいわれた折衷的な表現が多かった。50年代前半の抽象彫刻の主な特色としては、単純化した有機的な形態を基調に日本的感性をさわやかに打ちだしたことが挙げられる。

このような抽象彫刻の抬頭は写実主義的な彫刻にも大きな刺戟を与え、絵画に比して変り身のおそい彫刻にも徐々に変化があらわれた。対象を正確に観察し、客側的に把握しようとする写実主義から、自然の対象に基きながら主観性を強調しようとするものが多くあらわれ、従来の写実とは区別して具象という呼称が絵画とともに彫刻にも使われはじめたのが50年代の中ごろだったと記憶する。この時期の具象彫刻の変貌にもっとも大きな影響を与えたのはヘンリー・ムーアであったろう。ムーアの自然観察に基づきながら、対象を大胆にデフォルメしたいわゆる有機的構成は、それまで学び身につけてきたアカデミックな写実表現と、苛酷な戦争体験によって変化した人間観との落差にひきさかれ、新しい表現領域を模索していた人びとにとって、恰好のよりどころとなった。具象性の強い作風から単純化した抽象的な形想まで、幅広い探究を続けているムーアが、空洞に内部のつまった量塊と同様積極的な意味をもたせたことは、量塊を基本とするオーソドックスな彫刻の概念を拡大することに大きな役割を果し、具象彫刻ばかりでなく抽象彫刻にも広きな刺戟を与えた。実際にムーアを手がかりに具象から抽象へ作風を転換した人びとも少なくない。

56年の「世界・今日の美術」展を契機としてアンフォルメルやアクション・ペインティグの抽象表現主義が旋風のように美術界を席捲したが、絵画ぱかりでなく彫刻にも深いつながりをもった。複雑に屈折する有機的な形態、あるいは非定形の形象による表現が、抽象表現主義絵画に対応する抽象彫刻といえるが、戦後の屈折した心理、不条理な精神状況をはげしく表出するものとして、広く行われた。またこのごろから樹脂をはじめとする新しい素材が続々開発され、彫刻にとり入れられ、表現領域を拡大するのに役立った。とくに光を透過する材質の駆使は、前述したムーア以来の中空な空間の意識を強め、空間の概念を変化させた。この抽象表現主義の隆盛は、絵画の場合と同様彫刻の具象にも大きな変化をもたらし、大胆なデフォルマシオンやメタモルフォーゼに、ドラマティックな心理表出や人体像の実存的な把握がみられた。そこには頻繁化した国際交流による海外彫刻との深い関連がみられ、マリノ・マリーニ、マンズーらのイタリア彫刻、チャドウィック、アーミテージらのイギリス彫刻、ジェルメーヌ・リシエらのフランス彫刻からのさまざまな影響があったことが指摘できようが、なかでもマリーニの簡潔な形態による劇的な緊張感をもつ空間表出が圧倒的影響力をもった。量は重量感としてではなく緊張感として捉えられなければならないといった主張が、具象彫刻家の間でもしきりに唱えられた。またこの50年代の後半に、全く戦後になってから教育をうけ、作家活動をはじめた戦後の若い作家群が徐々に抬頭しはじめ、そのオーソドックな彫刻観とは無関係な制作活動は、それ以前の人びととの断絶を次第に深めて行った。49年からはじまった読売アンデパンダン展は一方からは「ロカビリー的喧騒」と揶揄されるがら、スキャンダルをまじえた大胆な反芸術的実験を重ねて、60年代の大きな飛躍の前景となったことも忘れられない。

60年「集団現代彫刻」が結成されたことは50年代と60年代とを区分けする出来事であった。この名称は今日からみると全く意味が鮮明ではないが、それまで各美術団体の枠のなかでなされてきた運動から、各会派を超えて前衛的な彫刻家が自立的に大同団結したものとして注目され、戦前・戦中・戦後の作家が同居していた。この集団現代彫刻は翌年第2回展までで自然に中絶する形になったが、彫刻家が自主的に企画しなくてもよいほど、彫刻に関する催しが急速に増大したのもその理由のひとつと思われる。63年には神奈川県真鶴で国際彫刻シンポジウムが行なわれ、モーリス・リプシ、クーチュリェらの海外作家と毛利武士郎ら日本作家が参加した。山口県宇部市につくられた野外彫刻美術館ではじめての大規模な野外彫刻コンクールが開かれ、意欲的な新進彫刻家が続々登場し、国立近代美術館で「彫刻の新世代」展が開催されるなど、新世代の動きが漸く注目をあつめはじめた。62年以後毎年ユーゴースラビアの彫刻シンポジウムに若い彫刻家が参加したのをはじめ、隆盛となってきた国際交流の場で新世代の発言力が次第に増大して行ったのである。

1960年前後にアメリカのネオ・ダダイズム、ヨーロッパのヌーボー・レアリスムなどの運動が起り、アッサンブラージュなどの新しい芸術観があらわれたのをはじめ、抽象表現主義後の心理表現や情念を拒否しようとするクールな傾向が拾頭し、ポップ・アート、プライマリー・ストラクチャーなどの新様式がめまぐるしいほど交錯し、また発達する科学技術を積極的に導入するキネティック・アート、さらにものの存在を原理的に追求しようとする観念的思考性の強いもの等、彫刻の世界は大きく変化した。これは要するに60年代が彫刻の大きな変革期に当り、オーソドックスな彫刻の概念が崩壊過程にあることを意味する。日本の彫刻は戦後急速に頻繁化した国際交流のなかで、いきなり抽象表現主義の衝撃も含めた崩壊状況の真只中に突入したため、戦後の若い彫刻家たちは先輩たちをがんじがらめにした対ヨーロッパ・コンプレックスからかなり解放され、通信交通の発達による同時性を実感としながら、自由で大胆に、かなり楽天的ではあるが積極的に制作している。数年来日本の彫刻が主として若い世代により活況を呈し、国際的な発言をはじめたことにはこのような事情もあるし、戦後渡航し、海外にあって活躍している彫刻家も忘れることができない。この世代の交替と彫刻観の断絶が決定的にあらわれたのを、私は宇部市の第2回現代日本彫刻展やそれに先立つ第9回東京ビエンナーレが開催された1967年とみている。

一見混沌とした様相を示している現代日本の彫刻は、単に素材・技法・形態・表現などの表面的な多彩さばかりでなく、彫刻の名で志向されているものが多種多方向で、それらが複雑に錯綜して多層的な構造を形成しているのである。そこでは従来のそれ自体完結した作品ではなく、周囲にむかってひらかれ、みるものと作品が相互に浸透し作用しあう動的な環境的な関係が志向されているのが大きな特色といえよう。

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