UBE BIENNALE

特別陳列 日本近代彫刻の史的展望 ー守衛から現代までー(1969-図録)

弦田 平八郎

江戸から東京に移る文明開花の空気のなかで、洋風の実物写生を早くも心がけたのは、高村光雲と旭玉山である。二人とも明冶初年において、自然観察に基く写生に、いち早く一生面を見出している。

維新による廃仏棄釈の荒波におそわれた木彫界にあって、木彫の滅亡を防ぐために苦闘した光雲は、写生によって従来の木彫とはちがう手法を取り入れ、さらに、木彫に創作的な制作を心がけて木彫を蘇生させた。

玉山もまた人体解剖をつぶさにみながら、髑髏や人体骨格の作品に迫真的な新生面を見出そうとした。だが牙彫一般は、一時期隆盛を極め、同時に根付から丸彫りに、丸彫りからはぎ合わせの大作にと、新生面がなるやにみえたが、材質としての限界、外人の好奇心に投じた技巧の瑣末や装飾趣味におちいったことなどから、ついには新時代の彫刻とはなり得なかった。

伝来の彫技を守る仏師や根付師や宮彫師たちの間に、西欧の迫真的な写実力を学ぽうとする機運は、除々にではあるが、一部にはすでにこのように高まりつつあったのである。

それを体系的に導入しようとしたのが、明冶九年開設の、工部美術学校におけるイタリア人ラグーザの来日である。ラグーザは、主として粘土による塑造の彫刻術と写生技術との新しい技術を日本に紹介した。だがそこに学んだひとたちは、俗にいう本物そっくりということにのみ気をとられ、彫刻論理までは理解し得ず、いかに実物を模するかということに終止したようである。

この傾向は、外形の描写から忠実な自然観察へと、技術の優劣によって進められ、やがて大正、昭和への写実主義的な造型へと移行して、日本彫刻のアカデミズムを形成していくことになる。ただこの流れは、ラグーザ門下生外の新海竹太郎や朝倉文夫の忠実な自然観察と卓技した表現力との影響によって、官展の場を長く支配することになる。

そのようななかにあって、内部生命を躍動させる彫刻を主張したのが、碌山こと荻原守衛である。光雲の息子、高村光太郎である。近代的自我に強く目覚め、個性を尊重し、彫刻の本来的な内部生命の高まりを表現した。近代の造形思想を探究し、彫刻理論をはじめて体系化した。二人ともロダンに感動し、ロダンから啓発されたことはいうまでもない。

とうとうと流れ込む西欧の近代的新思想を血と化し肉となし、かつ同時代的にともに歩もうとする姿勢をみせるのは、まさしくこの時点からであったといってよい。守衛や光太郎らによって、わが国の近代彫刻は、明冶末年、最初の門扉をひらいたのである。

守衛や光太郎の主張は、大正三年再興の日本美術院彫刻部、中原悌二郎、戸張孤雁、石井鶴三、山本豊市らにひきつがれ、より内面的な写実主義にと高めている。また、大正8年の二科彫刻部の藤川勇造たち、大正十五年の国画創作協会彫刻部の清水多嘉示、昭和14年の新制作派協会の本郷新、柳原義達、佐藤忠良、舟越保武、菊池一雄、ブールデルに学んだ木内克など、在野精神にとむさまざまに個性的な作家が、大正、昭和を形づくっている。

守衛らによって開かれたわが国近代彫刻の精神はこのように深められてゆくが、戦後ともなると、彫刻界も新段階を迎え、大きな変ぼうをみせながら多様に展開していくことになる。作家が自己内面のものを自からの手で造形し完成してゆく従来の彫刻とはちがった創造行為をもって、現代のテクノロジーと共同しながらあらゆる素材をつかって造形化しようとしている。

堀内正和、辻晋堂、向井良吉らをはじめとして、とくに昭和三十五年ごろから、熱っぽい空気を高めながら多くの現代作家たちは、芸術についての思考と造形をかけて、さまざまに可能性を見出そうとしている。現代彫刻が野外に出て、人間生活の共同社会への役割りを果そうとしている、といってよい。

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