UBE BIENNALE

形と色のこと ひとつの案内的な(1973-図録)

土方 定一

今回の宇部市野外彫刻展のテーマは、委員会によって、「形と色」ということに決定した。それについて、平常、少しばかり、ぼくが彫刻の形と色について考えていることを書き、そのことで、一般の方のなんらかのお役にたてば、と思います。

現代彫刻のなかで際立った巨匠というべきイギリスのヘンリー・ムアがあるところで、こんなことをいっています。彫刻家としてまづ最初に必要なものは、形に対する感覚であるといっています。この際、へンリー・ムアは形を shape といっています。そして、形に対する感覚とは、材質のこと、たとえば、木、鉄、また陶器、またステンレス、その他の新しい材質のことですが、この材質に対する感覚は、しばらく置いて、形のもっているプロポーション、長さの比例に対する感覚と、バランス、量の均衡の感覚の二つといっていいと思います。高村光太郎は、彫刻にとって大切なのは、比例、均衡と動き(動勢、ムーブマン)といっておられますが、動きについてはともかく、ヘンリー・ムアと同じように、形の感覚が、彫刻家にとって大切であることをいっています。形の感覚などというと、なにかむづかしいことをいっているようですが、われわれの日常生活からいって自明のことで、われわれの両足の長さがちぐはぐであっては歩けませんし、斜めの身体のままで歩るくことはできません。斜めの身体にしたら、われわれは倒れてしまうにきまっています。

この形の感覚は、彫刻、あるいは彫刻家にとって必要であるばかりでなく、建築、あるいは建築家にとって、また、すべての人にとって必要なことはいうまでもないことです。ゲェテはイタリア旅行のなかで、イタリア16世紀の建築家アンドレア・パラディオ(1518-1580年)の建築の全体の形と窓の配列の美わしい比例を賞讃していることは、ぼくがここで申すまでもありません。パラディオはヴェネツィアの運河にそったサン・ジョルジオ・マジョーレなどや多くの教会、宮殿建築をつくった建築家で古典的なパラディオ様式をつくり、多くのパラディアンを生んでおります。

パウル・クレー(1879-1940年)は1901年から1902年にかけてイタリア旅行に赴いていて、それらについては「クレーの日記」を読まれれば明らかですが、ここで建築のみについていえば、パウル・クレーもイタリアに赴いて、はじめて建築的なものがなんであるかを理解したと述べております。1903年12月の日記に「わたしがイタリアで建築という芸術作品を理解することを学んだとき、わたしは深い利益を得た。建築は実用を主とした建築であるが、それにもかかわらず、この芸術は他の種類の芸術作品と同様に、均斎のとれた純粋さをもっている。その立体的な有機体はわたしにとって神聖きわまりない学校であった。専門外のわたしは純粋に形のうえで(formal)いうわけであるが、これは一層、高い秩序を準備するために、どうしても必要なものである。有機体の概念の数的なものを理解したならば、自然研究は一層、容易に正しく行われる。」

また、他のところで、クレーは「イタリアで、わたしは建築的なものを理解した。いまならば、構成的なものというだろうが、そこでは、わたしは抽象的な芸術の立場でいっている。次の目標は、建築的な絵画と詩的な絵画が一致するか、少くも共同するかである。」

クレーの場合、イタリア建築と同時に、1914年に赴いたチュニジアのオリエンタルな建築がまた、大きな転機となっています。そこでは、球体と丸屋根の形をもつオリエンタルな建築様式ですが、クレーのいう建築的=構成的な抽象形態がクレーの作品のなかに現われ、それが詩的なものと共同しながら、クレーの幻想的な絵画が形成されていることは、ぼくが説明するまでもないことと思います。

ここで、話は、同じように形といっても、パラディオ的な四角形(大ざっばにいって)から球形、半円形と移っています。形といっても、円とか球形、半円形の外にわれわれの周囲には、数かぎりない形があることは、いうまでもないことです。そして、その形のなかで、ぼくなり、あなたなりが好きな形と嫌いな形とあることは、これまたいうまでもありません。各人各様でいいわけで、自分の好きな形がその人の心理と感情とに深くつながっているわけです。子供は、大人にはわからない泥人形をつくり、また絵を描きます。多くの子供の最初の絵は円からはじまる。これは精神分析学的には母親の乳房の感触の忘れ難い追億につながっているといわれております。また、円は絵画、彫刻の重要な造型(形成)要素となっています。セザンヌが自然は円筒形から成立しているといっているのは、有名な言葉ですが、円、三角、円筒形はヨーロッパの中世以来、造型の構成要素の重要なものとなっています。

ところで、フォーヴィスムの王様といわれたアンリー・マティスは、今世紀のはじめに、アフリカのニグロ彫刻を自分でも買いあつめ、その形に感動しています。そして、そのころ、あるジャーナリストのインタービューのなかで、それは、ギリシアの古典期の彫刻よりも美しい、それは、わたしのエモーションをひきだす、といっています。このことは、ルネサンス以後、人体の理想的な形を美しいとしたのに対して、アフリカのニグロ彫刻の方が、プリミティヴであるだけ、それだけ、マティスを感動させるということです。ヘンリー・ムアも、プリミティヴ・アートというと、一般の人は未完成の粗雑なものだと思っているが、そうではなくて、人間に直接的な感動を与える原型だといっています。このアフリカ彫刻は、このころ、ピカソ、ブラック、ドランその他の作家が争って蒐集したもので、これは、ベルギー領コンゴ、その他から兵隊たちが略奪してきたアフリカ彫刻――アフリカ人にとってはフェティシュ(物神崇拝)のものであったもの――ですが、マティスはマティスらしい、ピカソはピカソらしい感動をうけ、そこから、新しい造型要素をとっています。マティスは、1908年から11年にかけてパリで「アカデミー・マティス」を開いていますが、そこに出席していたサラ・スティンは、マティスの次のような芸術についての考えをノートしています。

「最初のあなたのプロポーションから見ること、それを逃さないこと。だが、正確に測定したプロポーションは感惰によって確認されなければ、そして、そのモデルに特有な物質的性格の表現でなければ、なんの役にも立たない。」

ここでは、ぼくが最初に shape といいました形が form となっています。それはともかく、ピカソは、フランス古典主義の指導者であったアングル・ジャン・オーギュスト・ドミニック(1780-1867年)の女体について、次のように賞讃したことがあります。「アングルは人体解剖学を嫌って、人体の内的構造を考慮することなくモデルの曲線をもつ表面を考えるだけで満足していた。アングルはモデルの肢体を長くし、同時代の批評家の非難をうけたように、関接をまるくしている。」

このピカソのアングル評のように、アングルの女体の胴体は(たとえば、「グラン・オダリスク」、1814年、パリ、ルーブル美術館)、実際よりも遙かに長く、それにもかかわらず、そういう不自然さを見る者に与えないばかりか「美しい背肉の線は右肩から左足のつまさきまでリズムをなして流れており」(平凡社、世界美術全集)、アングルの古典主義といわれるにもかかわらず、古典主義的なカノン(規範)から解放された女体の直接的な生命の触覚に従っていることがよくわかります。アングルのプリミティヴィズムといわれるものですが、これはヘンリー・ムアのプリミティヴィズム、マティスの感動とかエモーション、また「感情によって確認されねば」といっていると同じ近代の形の感覚です。ここで、たとえば、モディリアーニの裸婦の長い胴体を思い浮かべていただくとき、モディリアーニの裸婦が視覚的、触覚的な近代の感覚によっていることを知っていただけると思います。

ところで、彫刻は形といっても、その量塊、というより正確には、形の構成が空間をどのように支配しているかの問題と関係しています。やさしくいい換えれば、その彫刻が支配するアトモスフェアの空間といってもいいでしょう。そして、現代彫刻は今度は空間を抽象的な形態によって、建築的に支配しようとする傾向をガボ、ペヴスネルのような先駆者が示し、現在、多様な性格を示していることは、ぼくがいうまでもなく、宇部市現代彫刻展にもみられることです。

もちろん、ヘンリー・ムア、またアンリー・ローランスのように量塊による現代彫刻の方向があること、その他、現代彫刻は新しい素材によるさまざまな実験があることはいうまでもありません。が、要するに、形の構成と空間の関係であります。そして、その背後にある作家の思想が孕むヴィジョンであること、これまたいうまでもないことです。

ここで一転して彫刻の色ということについて、かんたんに考えると、どういうことになるでしょうか。彫刻、それが現在、立体作品といわれているものでも、素材を使うかぎり、それぞれにもっている色があることはいうまでもないことです。ですが、素材は彫刻家にとって、彫刻家を誘惑し、自己のヴィジョソをその素材によって構成させる、彫刻家にとっては大切な、宿命のような役割をもっていますから、色などというものではないようです。色などと素材を抽象化したら、恐らく彫刻家から叱られるにちがいありません。素材のもっている固い柔かい、暖かい冷たい、鋭いにぶい、透明不透明、その他、素材のもつすべての性質と彫刻家のヴィジョンとつながっているものでしょう。

マイヨールがあるとき、若い画家の友人に、彫刻は形のフォルムにかかわっていればいいが、絵画は色のフォルムにも関係しなければならない、といったことがあります。ロダンでも、マイヨール、ブールデルでも、荻原守衛、高村光太郎、藤川勇造にしても自己の彫刻に意識的に色彩を塗ったことはなく、ロダン以後の近代彫刻は、自己の作品に彩色することなく、拒否したといっていいと思います。ブランクーシ以降の抽象彫刻にしても、ブランクーシ、ヘンリー・ムア、ガボ、ペヴスネルにしても、彩色を拒否しています。もっとも、それらの作品の鋳造技術の結果としての素材の魅惑、また全体の着色については別で、その素材の魅惑が加わらねばならぬことはいうまでもないことです。わが国の鋳造技術は明冶以後に発展したためにフランス、イタリアの鋳造技術とその職人の彫刻への理解が浅く、その結果として、彫刻を一層、魅惑のないものとしていることは否定できないでしょう。ぼくの家は海岸の近くのために、スペインの彫刻家セーラさんからもらった牛のブロンズ彫刻の魅惑的な暗褐色の着色がいつの間にか消えてしまって魅惑を損ってしまいましたが、箱根、彫刻の森美術館のヘンリー・ムアの大作が硫黄と潮風のために、はじめに魅惑的な明褐色の彫刻の肌であったものが、いつの間にか変色してしまっているのも、この着色、あるいは、作品の性格に一致した彫造技術の例としていいでしょう。恐らく、現代彫刻のなかに、色彩が積極的に参加しはじめたのは、ピカソ、ブラックが1912年にパピエ・コレを使い、例えば絵画作品のなかにピカソの「静物」(1914年)のように実験されたオプジェの参加からレリーフ、立体構成となる経過からはじまったといっていいでしょう。現在、この系列の思想のなかにある立体作品は色彩が積極的に参加しています。また、イタリアのマリーノ・マリーニのように、彫刻の肌を魅惑的に絵画的にするために、絵画的要素を積極的に利用している作家がいます。

もっとも、先史時代のストーン・ヘンジ(イギリス)、またわが国の御神体の石は別として、エジプト、ギリシア彫刻からのヨーロッパのキリスト教彫刻、またわが国の仏像彫刻にしても、現在は色彩が剥落しているにしても、絵画と共同しています。この伝統は、わが国の木彫家に残っています。ぼくは、大分以前に、東京高島屋だったかで関催された京都、東寺の寺宝展で、着衣させる仏像であったものを、着衣なしで展示してあった木彫を見て、その明析無比の単純化された人物像の形態の強靱な美しさに驚嘆したことがあります。日本の仏師の、人間にとって大切な形の感覚の清新な感覚に驚嘆したことは申すまでもありません。

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