UBE BIENNALE

宇部野外彫刻展の十六年の歩み(1977-図録)

弦田 平八郎

自由で溌剌とした野外空間のなかに彫刻が解放され、わが国の現代彫刻が大衆の前に大きく姿を現わしたのは、16年前、1961年7月のことである。

阿井正典、井上武吉、木村賢太郎、小谷謙、昆野恒、佐藤忠良、建畠覚造、田中栄作、戸津侃、中島快彦、舟越保武、向井良吉、毛利武士郎、森堯茂、柳原義達、レオン・ターナー16人の、集団60を主とした作家による59点の作品で、「宇部市野外彫刻展」として宇部市の常盤公園に出現したのであった。

この出現が、敗戦後の混沌から立ち遅れていた彫刻界に、清新の気を吹きこんだことはいまさらいうまでもない。彫刻が戸外に解放され、それまでの、手許において個人が鑑賞するのとは違う彫刻の在り方に強い関心の眼を向けさせる、という画期的な意義をももたらしたのである。絵画にくらべてとかく静かな彫刻界に一石も二石も投じ、彫刻そのものや彫刻界全体に、強い刺激と多様な進展を与えるのに、大きな役割を担ったのである。

2年後に世界近代彫刻日本シンポジウムが神奈川県真鶴海岸でひらかれたのも、これが刺激となったことは否めないだろう。宇部市の野外彫刻展もまた、同年に、姿を変え、「全国彫刻コンクール応募展」として開催することになる。このときは95名122点の応募があり、当時としては予想をはるかに上廻る出品で、新人作家のエネルギーを一気に爆発させたようなコンクール展となったのである。既存の美術団体に束縛されていた枠が取り払われ、団体に捉われることなく、思いのままに制作したのを出品したのが特徴的であった。

このときのカタログには、彫刻は本来野外の彫刻であって、太陽の光線が必要である……わたしの彫刻は、わたしの知っている一番うるわしい建物のなかより、どんな風景でもいいから、風景のなかに置かれてほしい、といっている理由のひとつはこういうところにある、というヘンリー・ムアの、彫刻の本質をつく言葉を引用して日本美術館企画協議会の土方定一会長が、「全国彫刻コンクール応募展」の開催理由と経過を述べ、さらに、「恐らく、参加作家は、この自然的環境のなかで、あらためて野外に置かれた彫刻の本質を反省し、彫刻のもつ自然的、精神的環境について反省せざるを得なかったに違いない。現代彫刻の新しい実験と前進のための第一歩がここにはじまった、といっても誇張ではなかろう。」といっているように、現代日本の彫刻に、新たな展開の可能性を強く印象づけたのがこのコンクール応募展であったといっていい。現代彫刻の新しい実験と前進の一歩が、他に先がけて本州の南端、人口わずか16万の小さな一地方都市、山口県宇部市からはじまったのである。

これには次のような経緯があった。16年を経た今日その経緯を忘れたり、知らないひとも多いので記しておこう。

むかしから石炭を堀りついで発展してきた宇部市は第二次世界大戦終結の直前、空襲で市街地のほとんどを焼失してしまった。しかし、その後の宇部市の復興計画は、他の都市よりはるかに早く、しかもまったく大胆なものであった。終戦のとし1945年11月、当時の常識としては考えも及ばない、路幅50メートルの主要道路を造る都市再建に着手し、衣食住欠乏の混乱期に市民の反感を買いながらも完成させたのであったという。さらに51年には、これら道路に街路樹植栽をしはじめ、やがて市民の共感を呼び起して市民ぐるみの緑化運動、花いっぱい運動へ展開させて55年に整備完了、58年には花壇コンクールヘと発展させるなど、早期に目覚ましい復興をなしたのであった。

この都市再建計画をすすめたのは、宇部市の故星出寿雄市長、故岩城次郎市立図書館長、現女性問題対策審議会長・緑化運動推進委員会理事長上田芳江女史らが中心となっていたが、このころさらに、「文化の香り高い豊かな町づくり」を念願していた宇部市は、岩城図書館長の学校の先輩である土方会長に協力を求めたのであった。すぐれた行政家星出市長、知性豊かな岩城館長、情熱家上田女史と土方会長との出会いが、緑と花の町に彫刻を結びつける「彫刻都市宇部」の基本構想をまとめさせ、やがて手はじめとして、わが国はじめての大規模な野外彫刻展をこの小都市において出現させようとしたのである。建築家大高正人、彫刻家柳原義達、向井良吉の三氏もスタッフに加わり、宇部市彫刻運営委員となり、まず、広大な宇部市常盤公園を委員たち自らブルドーザーで整地しながら、16人の彫刻家に呼びかけ、59点の出品をみたのが冒頭に述べた野外彫刻展であったという訳である。

ところで、彫刻を野外に解放し、自由にのびのびとさせたこの「野外彫刻展」は、前述のように「全国彫刻コンクール応募展」となった後、さらに2年後の1965年からは「現代日本彫刻展」となって、現代彫刻がもつ社会的機能を重視していくことになるが、そこには、「20世紀の近代彫刻がアトリエのなかの実験に従っているうちに忘れていた彫刻の社会性を回復しようとしていることが、つぎに大切なことだ。これは建築家、彫刻家、画家が協働して、われわれの生活空間を合理的に美わしくしようということである」(土方定一、朝日新聞、1958年1月27日付)とする追究が基本にあって、回を重ねていったといっていい。

第1回展から第4回展までは招待作家のみによって構成され、第5回展からはコンクール部門も加え、招待制とコンクール制の2本立てをもって現在に至るが、1969年の第3回展からは、毎回テーマを設けての開催となっていて、現代彫刻が現代社会と対応する、時代の、現代的発言を求めることになる。第3回展では、テーマを「三つの素材による現代彫刻-ステンレススティール、アルミニウム、プラスティックス」、第4回展では「強化プラスティックスによる」として、戦前には一般化しなかった、あるいは戦後の新素材による、近代工業技術が開発した現代の新素材、鉄、真鋳、アルミニウム、ステンレス・スティール、セメント、ブラスティックスなどの現代の素材によって、彫刻家の想像力が一致させる現代彫刻のあらゆる可能性を追究する多様性を探り、同時にまた、第5回展では「形と色」、第6回展では「彫刻のモニュマン性」、今回の第7回展では「現代彫刻の抽象と具象と」とによって現代彫刻の基本的な在り方、社会的機能を探る意図をみせてきたのである。併せて、現代彫刻が置かれる都市の性格を考えるとともに、変革期にある都市空間に応じて、現代彫刻の機能がもつさまざまな可能性の追究、彫刻的、社会的機能をどのように示すかなど、現代彫刻が共同社会の理想のなかに共通する契機を深めてきたこともいうまでもない。

しかしここで注目したいのは、その動きが、わが国の公害問題の歩みとほぼ同じに進められたということである。つまり、1955年の神武景気以来、わが国経済が急速に勢いをつけ、68年には日本の生産力が西ドイツを越して経済大国にのしあがっているが、その高度成長政策のかげに、水俣病、四日市ぜんそくなどを生みつつあった自然汚染の進展とほぽ同じであったということである。痛ましいことだが、きれいな水を、緑地を、という声が一般に出はじめたころ、社会開発を軽視する産業開発優先への批判が一部に起りはじめた1950年代後半のころ、宇部では現代彫刻に対する具体的な動きが活発化しはじめたことである。宇部市が市民と一体となって、1958年に花壇コンクールを開くことにしたのは前に述べたが、この同じ年に、花いっぱい運動を推進していた婦人団体が、花を植えた残金で、小さな彫刻、小さな裸婦像を買ったのは暗示的である。緑と花の街角に、ごく自然に彫刻が置きたい気持になったのだという。すでに2年前、市民有志の募金によって56年に山内壮夫の「産業祈念像」を街角においていただけに、それはさらに、60年には山内壮犬の「若人の像」を、61年には柳原義達の「坐る女」を購入して町を飾る運動へと発達している。61年は野外彫刻展のはじまった年である。ひきつづき63年には荻原守衛の「女」、藤川勇造の「裸婦像」、64年には「全国彫刻コンクール応募展」出品の水井康雄の「石凧」、67年には「第2回現代日本彫刻展」に出品された山本正道の「高原」が購入され、以後、佐藤忠良「冬の子供」、木内克「手をつく女」、河口竜夫(原文ママ)「立方体」が市民の手によって街のなかに置かれている。

一方、世間一般では、企業や市民社会の私的利害を優先させる高度成長政策が、公害に目をつぶりながら熱病のようにつづけられたことは、まだ記億に新しい。自然破壊が加速度的にはやまり、代りに、高速道路が一方的に造られ、システム技術の開発によって単純化画一化された、われわれに何の連想も与えない、うっとうしいだけの景観がつくられていった。しかも都市の包括的再開発一辺倒のため、近隣の社会生活は蔑ろにされ、人間疎外の感が深まり広がっていった。

その時期に宇部の野外彫刻展は、丁度これらの進行とにらみ合わせるかのように、その間、さまざまの意欲的な実験を繰りひろげながら、現代彫刻が、うっとうしくてやりきれない思いの都市や人間疎外の社会生活を、いかに蘇生させるか、いい都市空間が社会生活にいかに精神性豊かなものを加えるか、訴えつづけてきたかのような感があったのである。都市がうっとうしくなればなるほど、現代彫刻の新たな社会的機能を探るものとして、環境と彫刻、都市空間と彫刻といったように、それらの関わり合いが大衆の視野のなかで、強く追究されてきたといっていい。それだからこそ、当初、野外彫刻と都市空間との結びつきを理解しなかった大衆もまた、心に自由な思いを抱かせるすぐれた野外彫刻への理解を次第に深め、近年全国各地に、彫刻が都市空間に置かれる好ましい姿をみることが増えつつあるのである。公園を、緑地を望む各地の市民が、公園に花時計といった画一的な安易な図式より、清新な環境整備によって現代彫刻が置かれた環境の方を望むようになりつつあるのは、今日では当然の成り行きといえる。とすると、宇部市の野外彫刻展が、一地方自治体の予算のなかで、啓蒙的な役割を担うべき信念とエネルギーを16年以上も持続させた宇部市の野外彫刻展の存在意義は、まことに大きいといわなければならない。

昨年、同展を熱心に推進実施している現代日本彫刻展事務局がおこなった彫刻展に対するアンケートの回答は、高い関心を示す市民の声が一段と高くなっていることを教えてくれるが、この市民の声の期待を裏切らないよう宇部市の野外彫刻展は、土方会長を含む宇部市彫刻委員と選考委員、毎日新聞社、それに歴代の市長(星出市長亡きあとは西田竹一市長に、西田市長亡きあとは新田圭二市長に、新田市長退職のあとは現二木秀夫市長に受けつがれている)とによって、充実さを増していっている。その間、数多くの彫刻家のエネルギー溢れる協力によって、その年度に記録さるべき力作の数々が発表され、現代日本彫刻展を密度の濃い、清新なものとしたことも、これまた大きな力があったことはいまさらいうまでもない。また、この野外彫刻展には、地元の有カな大企業、宇部興産株式会社の理解ある協力があって、市と地元企業との好ましい関係が力となっていることも忘れることはできない。

こうして、多くのひとの善意ある協力によってことしもまた第7回展を迎えることになった。改めて、16年の年月の重みを感ずる訳だが、これを機に、以前から懸案となっている宇部市野外彫刻美術館屋内展示場の施設ができたならどんなによいことか、と強く思う。この施設ができることによって、彫刻の保存が恒久的なものとなり、宇部市の彫刻を含む芸術文化が、いっそう確固としたものとなるからである。時代の先取的気概のあった宇部市の市民精神を涵養するにふさわしいものとなることが目にみえているからである。

終りに、1961年に行われた宇部市野外彫刻展(賞制度なし)のあと、宇部市の野外彫刻展において受賞されたひとびとを列記しておこう。

◎全国彫刻コンクール応募展(1963年) 大賞・志水暗児 ほか受賞者・尾川宏、小田襄、島田忠恵、田中栄作、玉置正敏、土谷武、富樫一、宮川和博

◎第1回現代日本彫刻展(1965年) 大賞・江口週 ほか受賞者・小田襄、桜井祐一、篠田守男、土谷武、野水信、村岡三郎

◎第2回現代日本彫刻展(1967年) 大賞・岸田克二 ほか受賞者・一色邦彦、新宮晋、高橋清、土谷武、福岡道雄、湯原和夫、若林奮

◎第3回現代日本彫刻展(1969年) 大賞・村岡三郎 ほか受賞者・伊原通夫、小田襄、栄利秋、田中信太郎、広井カ

◎第4回現代日本彫刻展(1971年) 大賞・多田美波 ほか受賞者・靉嘔、江口週、押尾豊、福岡道雄、堀内正和、村岡三郎、保田春彦

◎第5回現代日本彫刻展(1973年) 大賞・山本衛士 ほか受賞者・小田襄、加藤常明、木村光祐、田辺武、土谷武、野崎悠子、保田春彦

◎第6回現代日本彫刻展(1975年) 大賞・土谷武 ほか受賞者・今井由緒子、鬼束恵司、清水九兵衛、多田美波、田中米吉、増田正和、保田春彦、山口牧生、若林奮

なお、選考委員は年度ごとに多少変わっているが、これらに関係した委員をすべて列記すると、  今泉篤男、岩城次郎、大高正人、小倉忠夫、加藤貞雄、河北倫明、谷口鉄雄、弦田平八郎、中原佑介、中村傳三郎、針生一郎、土方定一、堀内正和、増田洋、三木多聞、向井良吉、望月信成、柳原義達の諸氏である。

前に戻る

  1. top
  2. 図録掲載記事