UBE BIENNALE

人づくりの大役担った彫刻(1979-図録)

上田 芳江

宇部市に於ける「現代日本の彫刻展」は、今年で第8回目を迎える。ビエンナーレ形式であるから16歳の年輪を数えるわけであるが、常盤公園を会場にした展覧会は、それまでに2回開かれているから彫刻と宇部との結びつきは実に20年の長い間続いているのである。

宇部市は、明治初年に石炭を経済基盤として急速に発展した町である。藩政時代には、海辺の小さな農漁村であった。石炭も粗悪な低品位炭で瀬戸内塩田の燃料として農家の副業的な役割りしか持っていなかった。ご一新で世の中は文明開化の夜明けを迎えたといっても宇部村の住民は、文明とも文化ともほど遠いところにあって、ひたすらに生きる方途を探さねばならなかった。

石炭が、近代工業のエネルギーとして時代に迎えられるようになって、この瀬戸内海沿岸の小さな村も活気を帯びて来た。日清、日露の両戦役、第1次世界大戦と続いて、宇部には人口流入が続き、第2次大戦に突入する頃には人口17万をこえる鉱工業都市に成長していた。松林の続く砂浜に、堅坑が堀られ、斜坑が開かれて、その周辺に人家が密集し、何となく町が出来ていったのである。

第2次大戦では市街地の三分ノニが灰になった。炭層が海に伸びているのでこれを堀進するためには、海面を埋めたてて陸地を造成しなければならない。埋めたてには、炭層に着くまでのボタと呼ばれる泥土が利用された。

これに石炭の燃えがらを混入する。砂とボタと石炭の燃えがらとで出来た上の上の町は空襲で砂漠と化したが、奇跡のように海沿いの炭住街が残された。間もなく朝鮮戦争がはじまって宇部にまた人口の流入がはじまった。

しかし、好況は永く続かなかった。朝鮮戦争の終結と共に、炭坑は花形産業の座を追われ、産炭地振興政策が、国の政冶のなかで検討されなければならなくなった。

戦後の荒廃は、わが町、わが国だけの問題ではなかったであろうが、瓦礫のなかに置き去られたような町の渇きは眼を覆いたくなるものがあった。もともと樹木の育たない地形の上に出来た町で、生き残った植物といえば夾竹桃くらいのもので、真夏の太陽に花をひろげている夾竹桃の紅の色が、燃える生命の証のように思われる風景であった。こうした環境の中で、暴力団の抗争が続き、青少年の非行が急傾斜で増加した。

市行政は、国の助成が待ちきれないで単独市費を投入して、戦災都市復興計画の絵に色を塗りはじめた。こうして宇部の緑化がはじまったのであるが昭和25年からはじまった宇部市の緑化予算は50万円であった。市の係員は、失対労務者を伴れて山にはいり、樹木を堀り出して苗木を作った。今日、町を覆うている街路樹はその成長の姿である。乏しい予算で樹を植えて行く職員の姿に感動した婦人団体が協力に起ち上った。町内会は瓦礫の山を崩して花壇をこしらえ、花いっぱい運動が全市にひろがりはじめた。

こうしたある日、整備された宇部新川駅前の噴水池に模造の白い小さな彫刻が置かれた。

「ゆあみする女」である。花の種代として婦人団体が集めた20万円の金の残りで、公園係が設置したのであった。

この小さな彫刻がどれほど市民の心を和ませたことであろう。小学生たちは、画用紙をもって毎日写生に集った。

これが、のちに「宇部を彫刻で飾る運動」に発展するのである。偶然見つけた彫刻の芽を育てようと意慾を燃やしたのは、今は故人になった美術評諭家の岩城次郎氏である。当時、岩城氏は図書館長であった。

岩城氏の情熱に火を点げたのは、これも故人になった当時の市長星出寿雄氏であった。日本一住みよい町づくりを標榜して市長になった星出氏は、経済基盤の陥没、暴力団のばっこ、青少年の非行などの難問を抱えて苦斗していた。それに加えて、昭和38年には山口国体の主会場を引きうけねばならない。39年にはオリムピックが開催される。山口国体は、オリムピックのリハーサルとまでいわれていた。金がなくても出来ることは、人づくりだ、という信条を抱いて、星出市長は彫刻の町づくりに取り組んだ。

行政の最高責任者と美術評論家、それに直ぐ行動に起ち上る婦人団体がスクラムを組んで「町を彫刻で飾る運動」が展開されたのである。水を得た魚のような岩城氏の活動がはじまった。

市長や、市民のユートピア建設の情熱が、岩城氏をパイプとして、美術評諭家の土方定一氏、彫刻家の向井良吉氏、建築家の大高正人氏など第一線の人たちを動かした。彫刻を迎え入れる素地づくりとして第1回野外彫刻展が36年に常盤公園を会場にして開かれた。これは、わが国ではじめてという大規模なものであった。作品の搬入には宇部興産のセメントタンカーの全面的協カがあった。38年の国体開催の年には同じ会場で第1回全国彫刻コンクール応募展が開かれ集った人びとを瞠目させた。この3年の間に、宇部の町には、向井良吉の「蟻の城」、柳原義達の「座る女」などが置かれ、38年には、荻原守衛の「女」、藤川勇造の「裸立像」などが市民の寄附で設置されたのである。

「岩城君、君の肩書に図書館長と美術館長の肩書を入れなさい。任用辞令を出すよ」

市長室で、ある日、ある時、こんな話が出た。びっくりしている岩城図書館長に、星出市長は、「君は野外彫刻展を大成功させた立派な美術館長だよ」ようやく言葉の意味が呑み込めた岩城氏は相好を崩した。

「美術館を建てて下さるのですね」

「そのうちにね。しかし、今だって美術館はあるのだから大威張りで肩書を入れなさい。宇部市野外美術館長、とね」

こんな約束をした二人は美術館を見ないで昭和44年に相前後して故人となられた。岩城氏の死はかけ替えのない損失であったがその後を継いで仕事に没入したのは若い吏員の相原幸彦である。傍目には痛々しいほどの苦労をしながら、しかし、よく今日までこの運動の先頭に立って来たと、わたくしは今、その感動を新にしている。

彫刻展は40年から「現代日本彫刻展」と呼称を改めビエンナーレ形式でいま第8回を迎えているのである。

彫刻運動の通って来た道をふり返って見ると、陰に陽に協力して下さった人びとの顔が思い出される。町に彫刻を設置しながら、展覧会を開いて来たのであるが、この主軸はどこにあるのか。運動をすすめるエネルギーは何であったのか。はじめから一緒に歩いて来たわたくしにもよく分らない。思い出されるのは、昭和41年12月26日のことである。あと2日で御用納めになろうという日にわたくしは市長から呼び出された。緑化運動推進委員会という組織をつくるから協力しなさい、というのである。目的は「本市の緑化を通じて生活環境の美化と向上を図り併せて都市文化の高揚に資するため」とあり、即日施行というものであった。緑化運動と断ちきれない絆がここにできたのである。

わたくしはこの稿を草しながら、土方定一氏の言葉を思い出している。彫刻のモニュマン性についてである。

「モニュマンとは”思い出させる”こと。個人、人々、事件、観念の記憶を永遠化する役目をするものを指している」

宇部には70点に及ぶ彫刻が置かれている。

設置の一つ一つにはドラマがある。やがてこの町は「現代日本彫刻史美術館」になるだろうと言った相原幸彦の言葉に、わたくしも同感である。

(緑化運動推進委員会理事長)

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