現代日本彫刻展に思う(1979-図録)
加藤 貞雄
第二次世界大戦中に、全国のほとんどの小学校から供出されて姿を消した二宮尊徳の銅像に代わって、戦後もようやく落着きはじめたころから「何か彫刻を」という動きが各地で起こり出した。時代も変わったことだし、もはや二宮尊徳でもあるまいということから、では何を建てようかと”有識者”が集って意見を戦わし、落着くところは無難なツルとかカメといったありふれた彫刻がほとんど。小学校の校庭という、子供たちにもっとも親しみのある、しかもすぐれた芸術にふれさせて教育的効果のある空間に、いい彫刻とはどんなものかを知らない大人たちが、子供たちの関心を全く呼ばない、形だけの彫刻を作ってしまったのだ。「せっかくの生活空間になんというバカげたことをするのだろう」と舌打ちした前衛的な傾向の彫刻家の残念そうな顔付きを私は時々思い出す。
そういう傾向は、昭和30年代の中ごろまでつづいていたと思う。時代の最も新しい美術の様相を紹介しようということで始まった毎日新聞主催の現代日本美術展や日本国際美術展も、美術界に大きな刺激となり、すぐれた前衛作家が育ちながら、その会場の入口から中をのぞいただけで、アクションペインティングや鉄の抽象彫刻に拒否反応を起こし、あきれたというような表情で回れ右をする人が少なくなかったから、そのころはまだ、現代美術が大衆と密接につながっていたわけではない。だから、二宮尊徳がツルやカメに代わるのも、無理はないところもあったといえるかもしれない。しかも、彫刻は絵画と比べて、はるかに関心が低かった。いまでも、美術のマーケットで彫刻のウェイトは絵画に遠く及ばず、数年前の”美術ブーム”も、彫刻はほとんど関係がなかったように、大衆の個人生活の場で彫刻はまだまだ定着していないが、にもかかわらず、野外や都市空間での彫刻は、以前とは比較にならいほどふえ、多くの人に親しまれている。もはや、小学校校庭にツルやカメの置き物のような彫刻を据えようという議論はまるで聞かれなくなった。
もちろん、彫刻が美術の領域で広く絵画と同等に扱われるようになるには、まだ時間がかかるだろう。美術館での彫刻展が人気を呼び、彫刻を見る人がぐんと多くなったとはいえ、一方では、一流の企業の社長室や応接室で、有名な大家の絵画は壁にていねいに飾ってあるのに、やはり有名な大家の彫刻は柱や鑑賞用の植木の陰に置かれているという状態が続いている。しかし、少なくとも、現代の日本には国際的に立派に通用するすぐれた彫刻家が少なからずいて、それぞれに特徴のある現代彫刻を作っているという認識は、社長室や応接間や画廊やデバートの美術品売場と違う、開かれた場所で広く一般化しつつある。私はそれをすばらしいことだと思う。
こうして、以前は絵画の後についていた彫刻が、絵画に並ぼうとするまでに関心を高めるのに、ことし第八回を迎えた、ビエンナーレ方式の現代日本彫刻展が果たした役割は大きい。タイトルが現在の現代日本彫刻展となる四年前の昭和36年、宇部市が常盤公園で「宇都市野外彫刻展」を初めて催したのは、日本の彫刻界に大きな刺激となり、活気を巻き起こした。そして二年後に全国的規模の「全国彫刻コソクール応募展」として公募されると、若く実力のある彫刻家たちがこぞって応募し、思い思いの意欲作を広い公園に展開させたのだった。その二年後に、第一回現代彫刻展となったのだが、最初に「宇部市野外彫刻展」が開かれた昭和36年といえば、まだ新しい、前衛的な彫刻が一般にはほとんどなじみのないころであった。まだ、最初に書いたように、ツルやカメが幅をきかしていたころであり、作家の側の強烈な創作意欲、造形精神の高まりと一般大衆の彫刻への認識との間のずれは小さくなかった。そんな時に、東京からはるかに離れ、人口16万と都市の規模もさほどではない宇部市が、現代彫刻の実験的な野外展をいち早く催した英断と実行力、さらに先見性はお見事というほかにない。
ことしは箱根彫刻の森美術館で、現代彫刻のコンクールであるヘンリー・ムア大賞展が創設された。すでに宇部展を追ってスタート、隔年に開催されているものに神戸須磨離宮公園現代彫刻展がある。いずれも現代彫刻のトップレベルの作家と新進が入り混じって力作を発表する場となっている。また、長野市、仙台市、横浜市などの都市でも、彫刻を都市づくりのしんに据えるところも出てきている。そういう動きに先鞭をつけたのは宇部市であり、そのパイオニアとしての意義はまことに大きい。地方自治体の限られた予算に計上して、信念を持ってこの文化事業を継続してきた、星出、西田、新田、二木の歴代市長をはじめ宇部市の関係者の努力と情熱、さらにその施策を理解し、現代彫刻を公園で楽しむ宇部市民の見識はいくらほめたたえられてもいいだろう。実際、戦災から立ち直るのに、まず広い道路から始め、街路に植樹するという新しい都市計画を進め、彫刻都市という明確なビジョンを貫いてきた宇都市の文化度の高さは、他の自治体に範を垂れるものだ。
ところで、この宇部市の現代日本彫刻展は昭和40年の第一回展から46年の第四回展までは招待作家だけで行われたが、第五回展からは招待とコンクールの二本立で現在に至っている。この二本立は、すでに実力の高い作家たちの作品によって展覧会のレベルの高さを保持しつつ、一方で有能な新進の新しいセンスや大胆な表現にも目を向けようということからであり、他の野外展もおおむねこの方式を踏襲している。ただ、コンクール部門は、本来なら完成した野外作品を現地で審査するのが理想であるけれども、現実にはそれではあまりにも経費がかかって作家の負担が大きく実施は困難なので、あらかじめ模型による審査を行っている。模型のなかから選ばれた作品はあらためて、作家によって予定された素材、大きさどおりに拡大制作し、招待作品とともに賞を競う仕組みである。実物制作をすることになった作家には制作費の一部を主催者が補助することになっているので、数に限りがあり、模型の優秀作すべてというわけにいかない。しかし、このコンクールに寄せる若い作家たちの意気込みを反映して、選外とするのは惜しい作品が少なくないので、従来から優秀模型作品が会場の一隅に展示されている。それらは、こん回からすべて入選とし、そのなかで実物制作の作品が選ばれるというように改められてすっきりした形になった。
近年、現代日本美術展はじめ前衛的な傾向のコンクールでは、絵画=平面作品に比べて彫刻=立体作品が賞に対して優勢である。それは立体造形の作家が、つぎつぎと新しいアイデア、素材を実験的に使って、未知の領域を開いているのに対し、平面の作家が従来の絵画のワクから抜け出しきれないでいる現状の反映といえそうだが、さらにいうなら、立体作品の方が、素材や仕上げの過程で費用がかかっているせいなのかもしれないという気がする。つまり、作家が自分の発想にかたちを与えて作品とするのに彫刻は元手がかかるが、その負担を超越してコンクールにチャレンジするという態度が彫刻の作家にはあって、そのいさぎよさが作品に反映しているのではないかと考えるのだ。いかにも次元の低いかんぐりのようだが、素材も石やステンレスや木やガラスと多様になり、加工も手際のよさが出来のよしあしを決定する以上、かけた元手の多いほど出来栄えはいいという理屈だ。しかも、少ない時間で描き上げることが出来る絵画と違って、じっくりした思索と丹念な制作の段取りが必要なのだから、計算づくでない純粋な意欲と情熱が作品に結晶するのではなかろうか。
今回「ポエジー」をテーマに、現代日本彫刻展は、それらよりはるかにスケールの大きな作品が寄せられた。それらの多くはそれぞれの作家にとっても、また日本の彫刻界にとっても記録に残るべき作品であろう。しかし、ほとんどは美術館買上げである賞の金額と制作の実費はますます開いている。その負担の大きさに耐えて、思い切ったスケールの作品を寄せた作家たちの作品が、金銭的な値打ちよりはるかに実質的に現代の都市空間を豊かなものにしてくれる。作家が、それだけ打込める対象として考えてくれている宇部市の現代日本彫刻展をだからこそ、私はみんなで大事につづけてほしいと思う。
(毎日新聞美術記者)