UBE BIENNALE

緑の町と彫刻(1981-図録)

河北 倫明

わが国の野外彫刻展の草分けという光栄ある歴史を描いてきた宇部市の「現代日本彫刻展」が第9回を迎え、「緑の町と彫刻」という今日にふさわしいテーマのもとに開催の運びとなったのは悦ばしい。時を同じくして「21世紀の都市デザインを考える全国シンポジウム」が、やはり「ひろばと緑と彫刻と」というテーマで開かれることになっているから、この秋の宇部は、彫刻展と同時に、これと関係深い新しい都市づくりについての現代知性の結集も見られることになるだろう。

ところで、「緑の町と彫刻」というテーマであるが、この緑と彫刻という字を見たとき、私にはプライベートな一つの鮮やかな思い出が浮んできた。それはもう20年ばかり前のことで、私が東京京橋の国立近代美術館にいたころの話である。当時、京橋という東京の街のど真中にある小さな古建築の中に在った近代美術館を、どこか広いところに移して、大きいものにしたいというのが、私どもの夢で、日夜、新営移転のことに腐心していた。その計画がだんだん熟し、ある筋からの尽力もあって代々木公園が有力な候補地として挙ってきた。しかし、当時はとにかく公園緑地を守ろうという一般世論のつよいときであったから、簡単ではないと覚悟はしていたが、たまたま噂を聞いた某大新聞が、この問題を社会面で大きく取上げた。そうして、その見出しが衝撃的だった。すなわち大きく「縁か美術館か」と打ち出したのである。

私は、しまったと思った。まだまだ戦後の荒廃の抜けきらぬ東京で、緑の回復が大切なことは分りきっている。その緑が大切か、あるいはそれをつぶして美術館にするかというニュアンスの大見出しなのだ。美術館と緑が完全に対立物のように扱かわれている。私どもが、美術をあつかう美術館はもちろんそんな破壊的なものではない。かえって緑を映えさせ、意義づけるような文化施設であると、いくら辮明しても、一度出た大見出しの効果は消えがたく、代々木案に大きな暗影を投げかけた事態は、今でも忘れられない思い出である。その後、話は別方に展開して、現在の北の丸公園に移転新営の計画が実ったから、もうどうということはないが、20年前、「緑か美術館か」という対立発想で苦汁をなめた記億は、なお私の脳中に残影をとどめている。

今、この多少苦い記億を連想したわけは、今回のテーマの「緑の町と彫刻」という文字が、字づらにはちよっと似たところがあっても、内谷はまさに反対の、きわめて和やかで調和的なものとなっている点が愉快だったからである。この宇部市の彫刻展における緑と彫刻の関係は、かっての苦い私どもの場合とは歴史がちがい、考え方の角度がちがっている。それは比較にならぬほど人間性ゆたかな、文化的ふくらみに富む美しいイメージのものとなっている。こうした発想を当然のこととして打ち出している宇部市の場合は、地方都市として文化水準のきわめて高い良識がすくすくと育ってきている証機と見なければならない。そうしたことの因由はどこにあるか。これは「現代日本彫刻展」の歴史をたどってみれば、ただちに諾かれてくることであろう。

思えば、星出、西田、新田、二木の歴代市長をはじめ、岩城図書館長や上田女史など、当地のすぐれた先輩たちの理想と情熱がまず下敷となって、それに幅ひろい市民たちの協力が結集されてきた。そうした上に年月をかけて意欲的に築かれた過程の尊さを改めて讃えないわけにいかない。それは、文宇どおり一朝一夕に成ったものではなかったのである。

瓦礫のなかに置き去られたような戦後の渇ききった宇部市に、50万円の予算で緑化がはじまったのは1950年だったという。市の係員が失対労務者をつれて山に入り、樹木を堀り出して苗木を作った。なけなしの予算でこれを植えていく職員の姿に感動した婦人団体が自発的な協力に起ち上る。町内会は瓦礫を崩して花壇をつくり、花いっぱい運動がひろげられた。こうしたとき、その一隅に置かれた白い小さな構造の「ゆあみする女」の彫刻が、想像以上にいたく市民の心を和ませたといわれている。これがいつか「宇部を彫刻で飾る運動」に発展し、さらに星出市長、岩城館長、上田女史らと土方定一氏のすばらしい出合いによって、緑と花の町に彫刻を結びつける「彫刻都市宇部」の基本構想がまとまったのである。かくてわが国最初の大規模な野外彫刻展が、この山口県の小都市に出現した。これがやがて全国にユニイクな光芒を放つ催しに成長したことは、今では周知の事実であろう。

このような由来を見ると、ここでは私どもが味わったような緑地か美術館か、緑か芸術かといった奇妙な対立発想など出てくる余地がない。それどころか緑と花と彫刻といった思っただけでも美しい自然と人工の諧和がすなおに謳いあげられている。その諧和の中に、都市は人間性を回復し、彫刻は彫刻でその本来の使命に覚醒するきっかけを得たのである。故土方氏が「20世紀の近代彫刻がアトリエのなかの実験に従っているうちに忘れていた彫刻の社会性を回復しようとしている」と述べたことは、こうした緑の中の野外彫刻の使命と意義を適切に指摘しているだろう。その使命の実現へ向けて、建築家、彫刻家、画家が協働し、身近かな私どもの生活空間を合理的に美しくしようとしたわけである。この方向に沿って、宇部の野外彫刻展がいち早くめざましい成果をあげていった経過は、私たちの記億に新しい。緑の町と彫刻の在り方の可能性は、このようにして多くの人材の協力の中で、20年にもわたって探求されてきたと見てよい。

さて、しかしながら、20年の歳月はその間に多少の情勢の変化を経験し、これにともなう視点の推移を生み、今後の行き方について、また新しい課題の到来を予感させつつある。今、既往のだいたいを顧みると、1961年の集団60を主とした作家による「宇部市野外彫刻展」を皮切りに、 ’63年には「全国彫刻コンクール応募展」を開催、 ’65年からは「現代日本彫刻展」の第1回が始まった。それが隔年制で催され、今年 ’81年の第9回につづくわけである。

このうち第三回からは、毎回テーマを設けることになった。 ’69年は「三つの素材による現代彫刻-ステンレス・スティール、アルミニウム、プラスティックス」、 ’71年は「強化プラスティックスによる」というので、戦前にはなかった新素材によって現代彫刻の可能性を求めることが企てられた。これらはこの年代における工業技術の開発と躍進が裏付けとなっているが、それは素材の面の問題であると同時に、発想内容も工業開発時代の思考が大幅に入ってきた事実とつながっていよう。つまり、新素材にふさわしいいわゆる抽象的彫刻が野外彫刻の主流となってきたわけである。ちようど、この間の ’70年は大阪万国博の年であるから、経済高度成長期の決算期にも当っていたことになる。

次の ’73年には「形と色」、 ’75年には「彫刻のモニュマン性」、 ’77年には「現代彫刻の抽象と具象」ということで、開発時代、新素材時代といった時点を通過して、もう一度、野外彫刻の彫刻としての本質を見直そうとする観点が前景に出ている。さらに ’79年の「彫刻の中のポエジー」ということになれば、もう一度彫刻の内容や目標に照明を当てようということであり、本年の「緑の町と彫刻」は、そうした内谷や目標の社会性、現実の生活空間の中における意味を改めて見直すところに視点が来ているといってよかろう。いいかえれば、この20年間展開してきた野外彫刻展というものの総括的な反省と展望が求められているという意味になるかもしれない。

これは、今回同時に催されるシンポジウム「ひろばと緑と彫刻と」の内容とも密接にからんでくることのようである。20年間を経て、かつての無制限な大都市集中時代は限界にぶつかり、今や「地方の時代」「文化の時代」のかけ声が、中味のあるなしをかかわらず時代の声として囁かれるようになっている。そうした動向の先鞭をつけた誇るべきパイオニアとしての宇部市の「野外彫刻展」は、つみ重ねてきた経験のすべてを、同じ課題と念願をかかえる全国の諸都市のために、喜こんで提供すべきであろう。

と同時に、われわれとしては「緑の町と彫刻」という美しいテーマに沿って、彫刻家、建築家、画家のほか、町づくりの当事者や一般有識者もいっしよになって、来るべき時代の新しい波の対応する生活空間の構想に取りくんでいくべきだろう。今日はそういう重要な次の出発点にさしかかってきていると私は思う。

(京都国立近代美術館長)

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