第11回現代日本彫刻展によせて(1985-図録)
河北 倫明
ウベ・ビエンナーレとして親しまれてきた現代日本彫刻展も、今秋は第11回を迎え、その前駆をなした宇部市野外彫刻展を加えると13回を数えることになる。彫刻を野外に解き放し、この分野に新しい生気と現代的意昧を吹きこんだこのビエンナーレの歴史的光輝は今や万人の認めるところであろう。
前第10回には「人間讃歌」というテーマで作品公募を行なったが、今回はさらに人間と生活の基本につながる風土に眼を向け、「風土と彫刻」のテーマで作品を求めることになった。このようなテーマを提示することは、そのテーマ自体を彫刻で解示してもらいたいというのでなく、このテーマに触発され、呼応する作者内部の精神の志向の中から何かを生み出していただきたいということである。たとえテーマはどう変化しても、作者が提示してくる作品は結局は似たようなものだというやや辛脆な危倶もあるが、作者それぞれの造形言語が一定の性格を持って作品が出てくる以上、ある意味で一貫した近似性をもつのは当然なのかもしれない。しかし、その造形言語がどのような志向において作動しているかが問題なわけである。そこにテーマが生きてくるか、どうかの分れ目がある。
余談だが、先般ある用事でパリに行ったとき、当地の美術批評家や美術記者の諸氏と懇談する機会があった。そのとき、談は絵画、彫刻の問題から書の表現におよび、書における墨の表現は読めても読めなくても造形としての意義は同じで、読めない自分たちにもその面白さは十分わかるという話であった。それに対して、私は言った。
鑑賞する側、ただ見る側としてなら、それでさしつかえないが、表現者の方はしかじかという意味をもった宇を書くということに大切なポイントがある。それは、表現の仕事をその字のもつ意味への志向において、集中し、結合し、引っぱっていく事情があるからである。つまり、造形上の統一感の具体的な目やすを定める役目が字の意味の中におのずからふくまれている。さらにいえば、内面的な統一と外形上のまとめ方との接合点が伝統的に形成されているのが文宇であり、それを手がかりとして実現されていく関係になっている。
その意味で、表現者としていうなら書は決して単なる抽象形ではない。文化伝統を内にひめるところの抽象形である。読める読めないは見る側に立っての自由な立場だが、作者側に立って仕事の内部に突きこんでいけば、無造作に字の意味を無視するわけにいかない、のであると。
話がそのへんに入ってくると、フランスの人たちは何かやりにくいような表情であったが、考えてみれば、すべての作品に関して、鑑賞者側が自由に受けとるものの彼方に、表現者側の内的志向の焦点が大切な軸となって隠れていることはまま見られる事態であろう。むしろ、そういうものがあってこそ、表現が表現となり、見る人がそれぞれに何かを味得することになると考えることもできる。テーマはそうした内的志向への手がかりやきっかけをあたえることにおいて意味があるということになろうか。今回の「風土と彫刻」も、このような意味で、それぞれの制作者の気持に何か意義ある焦点を附興(原文ママ)することができれば幸甚といわなければならない。
ところで、「人間讃歌」につづいて「風土」といったテーマが打ちだされている近来の傾向は、野外彫刻の分野でもいよいよ当初の概論時代から各論時代へ、いわゆる多様化の具体化時代へ入ってきたことの例徴のようにも思われる。
先年、私は建設省の都市景観懇談会という会に列席して、今日各都市が面している都市景観問題の慨況に接する機会があったが、そこでの話し合いの中心は、良好な景観というのは一方では街路や人工的構築物のいろいろを造形デザイン的に美しく整えること、他方ではこれと並行して計画的に緑化方策をすすめること、さらにそうした仕事を展開するに当って進んで市民参加を求め、まず地域の合意形成をはかること、といった点に重点があったように思う。そうして、こういう方策をまとめ、行政がプランを実行するにしても、その基本にはどうしても市民、住民の景観意識の充実がなくてはならない。そうでなくては本当の良き都市景観は生れてこないというのがまとめの指摘だったようである。まことに当然で、この意見は都市景観と密接なかかわりの中にある野外彫刻の在りようについても妥当するというべきであろう。
これをさらに敷衍していえば、当然ながら野外彫刻は美術館内のものとは別であって正しく実生活の中のもの、生活空間の只中にじかに存するものである。従って、ただ造形構築物として美しく整えられているということ以上に、それが具体的に入りこんでいく都市や緑地や街路の中でどのように諧和するか、そのことがいっそうの重要事といわなくてはならない。
この観点からすると、今日の野外彫刻界はただ彫刻を美術館から引き出して別世界にもってくるだけの段階はもはや過ぎたので、これを生活や自然といった具体的環境の中にいかように持ちこむか、その工夫の時代に入ったといえる。作品は美術館やそれに準ずる特別の場所に他人行儀に飾られるわけではない。土地の自然と歴史の風趣が生きているところ、そこにある山や川にしても、由緒ある町並みや古建築にしても、さらには現代式の街路や高層建築物の間などにしても、そういう多様な環境の多様な条件にそれぞれに調和する表現が開発されることが大切である。都市の人工的構築物と緑の自然、伝統と現代のくらしの中の風趣、その中における人間的活力や自由感、そういうものが交錯する多様な関係の中に生気ある工夫と感覚を具現すること、それがこれからの都市景観問題であり、またそれと呼応する野外彫刻の生きた課題ということになるであろう。
前回の「人間讃歌」のテーマも、現代の野外彫刻の各論化時代に応ずる意味のものであったが、今回の「風土と彫刻」は、さらにこの課題にこまやかに対応して行こう、とするものといってよい。自然の風光、人々のくらしや文化守伝統的景観と都市の風景、それらの多様な相貌の中に、芸術家の心と感性によるみずみずしい創作物を打出すことによって、調和の新しい焦点を模索しようというのが今回の私どもの狙いといったらよかろうか。
この機会に、このたびの第11回の展覧会が、そうした今日の課題に何らかの解答を示唆する新しい活気を呼びよせるものとなることを改めて願わずにはいられない。最後に、関係各位の御協力に謝するとともに出品作家諸兄の御健康を祈ること切である。