彫刻の芸術性と独自性(1987-図録)
多田 美波
宇部市を始めて私が訪れたのは、1965年第1回現代日本彫刻展が開かれた時であった。時間の都合でオープニングには間に合わず、会場にたどり着いた時には、既に知人の姿も見当たらず、静かで広々とした常盤公園の美しい風景の中に、彫刻作品がのびのびと息づいていた。又、写真で知っていた向井良吉氏の蟻の城の作品が、まるで歓喜の詩を歌っているかの様に青い空に映えて、芝生にしっかりと足を据えていた。こういう場所に彫刻が置かれるのが本当はふさわしいのだという強い印象が今でも脳裏に鮮明に残っている。
早いもので、あれからもう二十三年の年月が経ち彫刻展も12回を迎えることになった。この緑の野外美術館に数々のカ作が生れ続けて、多くの人々が集ってくる様になった。宇部市の街は勿論、日本の各地の野外彫刻展等にも、大きな刺激を与え、彫刻界に大きく貢献して来たこと等、様々なことを振返って思い出すと、到底語り尽すことの出来ない多くのことがあったことと、唯胸が熱くなる思いである。
第二次大戦終了後、平和を取り戻した美術界もやっと自由な活動が始まり、彫刻も又、室内、或は美術館の中から野外へという声も高まって、建築空間へ、街の中の生活空間と密接な関係を持つ場へという試みが世界の各地でも始まっていた。
実際に日本で野外展のスタートを切ったのが、この宇部市で、1961年「宇部野外彫刻展」である。その後各地でも、野外彫刻シンポジウムや展覧会が行なわれ、1965年には、第1回「現代日本彫刻展」が開かれた。今回の第12回迄、ほぼ四半世紀、彫刻の歴史を築いて来たわけである。その間、次々に神戸須磨離宮公園、箱根の彫刻の森、又他の都市でも盛に行われる様になったのである。宇部市の彫刻展が重要な野外彫刻展の発端となるに至ったのは、それ迄の宇部市の運動に並々ならぬ努力が拂われた賜物であったのである。
始め、どうしてこの地方都市でと思った人は少なくない。都市復興に伴って、何よりも人間再建としての諸運動、緑化運動、街に花いっぱい運動、そしてその街に彫刻をという様に「文化の香り高い豊かな町づくり」を目指して街ぐるみ一体となって、宇部の歴史を造って来たのである。隔年毎に宇部を訪れてその頃の話を聞く度に、その根の深さと広さを知り、行政の力もさること乍ら、それを市民と結び付ける困難な役割をされた、まるで宇部という大木の芯の様な上田芳江女史のお力による所が大きかったことを知った。婦人団体や町の人々への呼び掛けと実践があればこそ、ピラミッドの様に底辺から緻密な築き上げが出来たのだと思う。又彫刻家が設置に伺うと多くの方が手伝って下さった。黙々とよく働いて下さる方のお話を聞くと、公園内にある施設の方々ということで、ここでも又行き届いた行政の実体にふれることが出来た。
又宇部市の産業を支えて来た宇部興産がこの展覧会の彫刻をタンカーで運搬されたり、大きな賞も出していられること等、本当に町ぐるみの運動である。
この二十余年の間に、野外展で多くの彫刻家が制作の機会を得、意欲を燃やし続けて育って来たといっても良い。彫刻家も経済的には楽ではないので、他のジャンルの人々から不思議に思われたりしたが、芸術家は、受注によって始めて仕事を進めるわけではなく創作意欲の実現が何よりの喜びなのである。ここで真先に書かなければならないことであったが、こういう文化運動、特に野外彫刻展の企画をされ、終始彫刻の推進の為に中心となって尽されて来られたのが、今は亡き土方定一先生である。展覧会に招待される度に「すみませんね、申しわけありません。又、苦労をお掛けします。よろしくお願いします。」と言葉をかけられる先生には恐縮する許りであった。先生始め関係しておられる方々の御苦心や多大なご尽力も計りしれないものと思われた。先生のこの一言で、本当に我々も良い彫刻を作らなくてはと、意欲が倍増したものである。大きな芸術運動が実現して行く為には、立派な企画と諭理、そして多くの人々の協力の和が必要だということを実感した。
彫刻は建築程ではないが、個人プレイでは中々完成出来ないことが多く、素材によっても異なるが、制作加工、移動、運搬、設置等と人手を借りなければならない。発注芸術という言葉を使う場合もあるが、スケッチだけで、設計も製作もしてもらう場合は、当てはまるかも知れないが、大型の彫刻の場合、高度な技術者に一部依頼したり、工場に協力してもらって制作する場合もある。しかし、素材の研究、選択、加工技術等を修めた上で、発想の内容を変貌しない様に進めて行かなければならない。抽象彫刻の場合、形の限界の所が大事な決め手となる点で、決して、他人まかせの仕事では不可能なことである。新しい素材の場合は、特に材質の研究と加工技術を修得して始めて表現方法を決定しなければならないのである。
最近では彫刻も多種多様に発展して来て、一層、素材も、表現方法も多伎に且って来た。ハイテクノロジーを組み込んだものもめずらしい事ではなくなってきた。
野外彫刻展の発展と共に、都市の中の彫刻としてのあり方が、種々論議され続けているが、1981年、宇部市で又、始めて彫刻をテーマにしたシンポジュム、「21世紀の都市デザインを考える全国シンポジュム、ひろばと緑と彫刻」が開催された。宇部市が野外彫刻展に取り組んで来て、こういうシンポジュムを開催するに至ったことは、大変有意義なことで、各地の行政の方々、都市計画専門家、建築家、デザイナー、彫刻家等、全国から集まって来て盛大に行われた。始めての試みなので、まだまだ、多くの提案を残し乍らも大変熱のこもった会議に終った。彫刻に対する関心を高める為の、大きな貢献となったことは事実である。昨年、箱根の彫刻の森美術館で開かれた、同じ様な課題のシンボジュムに参加して、何年か前に宇部で投げかけられた、この問題が人々の心にきざみ込まれて、ここ迄拡がったという波紋の大きさを感じた。箱根に於いても、課題を残し、解答をみるにはまだ程遠いことを痛感し乍らも、戦後唱えられ続けた運動の進展を思った。多くの人々に受け容れられる迄には、まだまだ遠い道程だと思い、なお一層の研究の必要性を改めて考えさせられた。
野外彫刻展も各地で行われる様になり、従って都市造りと彫刻の課題も論議されることが多くなって来た。又実際に多方面で実行されることも多くなり、地方にも美術館建設が進められて、多くの彫刻作品が建築空間に、都市の中等に置かれる様になって来た。現在この様に彫刻の場が拡大されて来たのを見ていると、何れもが、適確に場を得ているかどうかということを考えさせられる。異なった専門の人々の認識の相違から、再認識を必要とする努力がまだまだ残されている課題だと思う。彫刻作品も多くの場を得る様になって来たことは、長い間の各方面の努力の贈と喜ばしく思う一方、要求される課題や、制約、公共性の意昧、又デザイン面からの要望、他の空間との取り合せ等と、種々考えさせられる問題も少くない。何より本来の彫刻の芸術性と独自性をもって、空間に対応出来るかどうかが大切なことである。
野外展に於ても、もう一度原点に立って、そのことを考えてみる時期に来ているのではないかと思う。
(彫刻家)