UBE BIENNALE

第13回現代日本彫刻展に想う(1989-図録)

田中 米吉

「田中さんは、宇部の現代日本彫刻展で育った」と、色々な人から言われることがよくある。そんな時は素直に、有難く拝聴することにしている。

宇部ビエンナーレには、第3回展以来、度重なる出品招待をいただいた。おかげで、野外彫刻について、私なりの、環境と作品の問題を進めることが出来、一連のシリーズを宇部で発表している、と言った感さえありました。素晴しいチャンスをいただいた事は、私の創作活動の精気ある一時期をなすものだと、うれしく思って居ます。心より、運営・選考委員、関係の方々に、厚く御礼を申上げる次第です。

実は、この彫刻展の会場であるときわ公園は、私にとって、いわゆる青春真直中での、忘れる事の出来ない特別な場所なのである。

公園から歩いて、10分足らずの同じときわにある、当時の宇部工専(現山口大学工学部)で、私は、学生時代の2年間を過した。それは第二次大戦終結前後に亘る苦しい時代であった。入学はしたものの、軍事訓練、勤労奉仕へと、時代の要請に駆立てられて、勉学に熱中する暇は無かった。寮生活を強いられていたこともあり、御多分に漏れず、食糧難で、皆、何時も、腹を空かしていた、神国日本の必勝と、若いエネルギーのはけ口と、空腹を抱えて、ときわ池の周りを、さまよい歩いた。と、言ってよい。

2年生半ば、学徒動員で、下松市の工場に行き、数ヶ月間、輸送潜航艇を造る仕事に従事した。そして、任期を終り帰ってみると、宇部市は、空襲で殆んど焼失してしまっていた。

ときわから見下ろす宇部の町は、将に、灰塵に帰しており、平らになった土地は、遥か彼方の海にまで続き、その同じ平面を何処までも広げていた。腹の底を揺さぶる戦慄が、体の中を突抜けた。私達は、ときわを出ても、帰っても、戦時下の重く垂れ込めた暗雲から、逃れることは無かった。

そんな時、私には、ときわ池は、どうしようも無い苛立ちを、其処に放り出す事で、現実から逃れようとした逃避の場所であった。この池で楽しんだ、と言う記憶は殆んど無い。が、唯、無心に水面を眺めるだけで、心身の飢を癒してくれる憩の場所でもあった。時として、夕闇をついて走る一閃の光芒に、得体の知れない戦争の不安を、いよいよ募らせることも、度々であった。

やがて、終戦も此処で迎える事になった。

ときわは、私の苦しみ多い青春の軌跡を、刻み込んだ特別な場所である。そして、私の人間形成の原質に、青年時代の重大な時期に、深く関った、と、言えるように思う。

その後、ときわに行ったのは、1965年第1回現代日本彫刻展の時である。私は、目を見張る思いであった。気持ちのよい芝生の緑、広い湖面、太陽の光はあくまで明るく、燦々と、降り注いでいた。私の知っている、あのときわ池は、何処にも無い。置かれた彫刻の見事さよりも、先ず、公園の、新しく生れ変った姿に驚嘆した。ときわは、宇部の町と共に、よみがえっていた。

そして、今、又、「光と大地」のテーマによる第13回展が開かれようとしている。

亡くなられるまで、献身いただいた故土方定一先生を軸として、柳原義達先生・向井良吉先生、地元の市長星出寿雄氏・故岩城次郎先生・上田芳江女史、これ等偉大な先達のご努力により、我国最初の野外彫刻展示場が誕生した事は、既に神話の域に入っているようである。今でも元気にご尽力下さっている上田女史に、時折り、お話を伺う事があるが、向井先生自ら、ブルドーザーを運転されたり、芝生植えの経費が乏しく、最初は、雑草おさえに麦の種を蒔いた、と言う伝説的な話等限り無くあって、造成作業・環境造りは、並々ならぬご苦労があったものである。

彫刻展草創の時より今日の盛況を見るまでに、ご協力下さった全ての方々に、感謝の気持ちを惜しまないものです。

此処、ときわ公園は、何といっても、野外彫刻の場としての自然環境が良い。展示スペース自体は、それ程広いとは言えないが、ゆるやかな斜面から広い湖面に続き、遥か対岸の松林の丘陵を越えて空に向って伸びる、視覚が重要に作用するスペースは、無限な広がりと、変化を意識させ、異質な空間が、つながって生れる広く新鮮な空間域をつくって素晴しい。その為に、作品づくりのイメージ構成に、非常に多質的と言うか、より自由な広さを持たせてくれるのではないか。したがって、作品のスケールも、この環境の広がりが、作家の意欲を刺激し、おのずから、可能性を充分に引き出すだけの大きさに、発展してゆくのではないだろうか。年々、作品が大きくなりつつある根底には、この恵まれた自然を、巧みにとり入れた設定の良さが、大きく作用しているものと思われる。

宇部展以後、野外彫刻展が次々に生まれ、全国的規模のもとに、活況を呈しているが、宇部展が依然、人気を失わないのは、我国初の野外彫刻展としての歴史的な権威、いわば、野外彫刻のメッカとしての存在意義と共に、この自然環境が作品の場として、作家達に魅力を与えている為であろう。

野外展発祥より、早や28年、その間、運営委員会により、その時代の社会経済情勢、又、美術の現況等にしたがって、種々の反省のもとに、より理想に向って、試みと努力が積重ねられ、既に、現代日本彫刻の指向の表象として、認められる彫刻展としての、豊かな成果を挙げ、一般の高い関心と評価を得ている事は衆目の認める所である。

表現の可能性を存分に出し切る事の出来る組織と場の運営に、作家としても、感謝に耐えないところである。

最近の試みの中で、顕著なものとして、美術館賞があげられる。この賞を買上賞にせず、賞は名誉だけにし、美術館と作家とが、協義の上、コレクト可能な作品を買上げる、と言う方法が、次第にとられるようになっている。これにより、問題は残るものの、代替の作品が正式価格で美術館に所蔵されることは、納得出来、うれしいことである。美術館賞が、ややもすれば、美術館の所蔵し易い作品が選ばれるのではないか、と言う疑念が払拭されるものとしても歓迎されるもので、館に設置可能な場が少なくなりつつある現状では、有効な方法であると思われる。

私事で恐縮ですが、埼玉県立近代美術館の本間正義館長は、その方法の提唱者で、第10回展(1983年)で、私の作品に、賞だけ付けて、前年より計画を出していた埼玉近美の建築(黒川紀章氏設計)自体に、作品をとりつけ、一体化し、建築そのものを作品化したドッキングの仕事に、これを該当させ、買上げていただいた。これは、美術館として、思いきった試みであり、県との折衝こは、大変なご苦労をおかけした。私としては、絶好の機会を得て完成する事が出来、感謝と共に、深い感動をもったものである。

一方、この方法の場合、賞対象になった作品が、展覧会後、設置場所を得られず、大形作品であれば、尚一層、置き場に困る問題は作家としては、自作であるにしても、切実な問題である。これら秀れた作品を、直ちに、文化遺産に組み入れる事は、現代文化の多大な損失と言わなければならないだろう。と、言っても、野外展の作品をそのまま、他の場に移設することの是非も、大きな問題として取上げなければならない。基本的には、そこに置かれる作品は、そこの環境に置くことをイメージして制作されなければ、環境との一体感は無い。野外作品は、それが、そこに置かれて、息づいて、はじめて完成するものである。

展覧会作品を、その後、どのように場を与えるか、と言うことも、単純には論じられない問題である。野外展が発生の理念と、責任とを果しつつある今日、このことは、次なる大きな問題ではないだろうか。

展覧会では、強烈なエネルギーを放出、沈潜させた作品が、唯、草原に放置同然の状態で置かれ、又、都市空間の中に在っても、その作品の内容、イメージを、充分に出し切っていない状況を時に見る事があるが、残念な事である。

現在、驚異的な経済発展を成し遂げつつある我国の都市構造、文化環境を思う時、建物その他の機能的な拡充・発展を越えて、自然と人間の、根源的な新しい美意識のもとに、人間存在のスペースを発生させたいものである。その為には、行政は勿論、経済界の理解と協力が、より必要に思われる。

野外彫刻展が、美術館内の問題に留らず、野外彫刻の持つ基本的な問題として、自然・都市環境にまで、領域が広がりつつある現状に、対応する必要がある様に思う。諸種の、都市を考えるシンポジューム、環境芸術としての都市空間、町角の見直しが問題になりつつある今、新しい工夫、発展があるのではないだろうか。

今日も、出品作家は、灼きつく太陽の下で、作品の設置仕上げに奮闘している。そして、作家と共に、汗と泥にまみれながら、協力を惜しまない宇部市職員関係者、本当に、縁の下の力持ちとして、宇部ビエンナーレの一つの原動力である方々に、心から感謝の気持ちを捧げながら、素晴しいオープンを待ちたいと思っている。

(彫刻家)

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