彫刻が場所を呼び込むとき――「第14回現代日本彫刻展」に寄せて(1991-図録)
田中 幸人
宇部市は「彫刻」という顔をもっている。全国の市町村が平均化の一途をたどっているとき、宇部市は数少ない性格都市である。彫刻が都市の顔になって以来、今年でちょうど三十年、同時にその節目は宇部市に市制が施かれて70年という記念すべき年と重なった。七十年の月日の中での三十年。その数量的比率から推し測っても、宇部市という地方都市に於ける野外彫刻の比重が如何に大きかったか、その後に生れた若い世代の方々でも容易に想像がつくだろう。「宇部市の顔は彫刻だ」と断言しても、多分、異論を唱える市民は少いだろう。
わが国の彫刻界の現状が知りたいと海外の美術関係者や都市づくりの人たちが来日したとき、私は迷わず「百聞一見にしかず。宇部へ行ってごらんなさい」ということにしている。そのときの反応は、たいていが、人口二十万足らずの地方都市に100体近い公共彫刻が街のいたるところで輝いている姿を見てびっくりしている。宇部は世界でも数少ない稀な都市なのである、もちろん短所も見えてくる。彫刻事情が都市づくりのアラも見える。しかし、日本の都市のいい部類をひと目で理解できるメッカ的存在であることに変わりはない。ここには、わが国の彫刻家たちの実力やレベルがほとんど出ている。またそれを受容し、親しみ、批判する市民たちの公共的な鑑賞カ、あるいは彫刻を中心にすえた都市づくり推進者や文化行政の実力などなど、歴史も含めて街づくりのノウ・ハウのモデルがいっぱい詰まっている。いまでこそ「ふるさと創生」などということばも陳腐な響きに聞えるが、温泉や土産物やリゾート開発という街づくりの常套手段ではなくて「芸術」を三十年も前から「創生」のキイ・ワードにしてしまったところは、宇部市をのぞいて他にない。
宇部市民が彫刻らしき彫刻にはじめてふれ合ったのは1961年である。この年、わが国で最初の本格的な野外彫刻展「宇部市野外彫刻展」が開かれた。その二年後の63年には「全国彫刻コンクール応募展」が、さらにその二年後の65年には、こんにち「現代日本彫刻展」の名称で親しまれてきた第1回展が隔年ごとにスタートし、宇部市は野外彫刻の発信基地として知られるようになった。そして今年はその「第14回展」を迎え、ちょうど満三十年に当たるのである。
以来、ここからわが国を代表する彫刻家たちが続々育っていった。宇部市でさまざまな表現や素材の実験が試みられた。現代日本彫刻展に出すことが作家たちの夢となっていた時代もある。
私事に触れて恐縮だが、私も宇部市が第二のふるさとのように思える。というのも、私のこの彫刻展との付き合いは、63年の「全国彫刻コンクール応募展」からはじまったからである。主催者側の新聞記者だったので特集記事や連載記事を書くため二年に一度は必ず宇部市にやってきた。そして「彫刻都市・宇部」ができあがっていく経過をつぶさに目撃していくうちに、美術記者としてのセンスの大半を宇部市で育まれたといっていい。今回のテーマが運営委員会の席上で「宇部讃歌」と決まったときも、すんなり胸中でそれが納得できた。
多くの、この彫刻展に賭けた先達たちの面影が走馬灯のようによぎっては消えた。この彫刻展のプランナーでもあり情熱的な推進者だった故・土方定一氏や地元で市立図書館長をされていた岩城次郎氏(故人)、それをスマートな行政センスで支えられた当時の市長の星出寿雄氏(故人)、そして、今日でも舌鋒鋭くこの彫刻展の意義や芸術の中身を語り継がれている上田芳江女史(当時は女性問題対策審議会長、現緑化運動推進委員会理事長)。あるいは会場の常盤公園の芝生の丘を、自らブルドーザーを運転してきり拓かれた彫刻家の向井良吉さん、柳原義達さん、建築家の大高正人さん、などなど……。その間、市長さんも、星出市長から西田竹一(故人)、新田圭二、二木秀夫、そして現職の中村勝人市長まで五代目を数える。忘れられないのは、この彫刻展のいっさい面倒を兄弟二代にわたった事務局長役で引受けられたのが相原兄弟、そして公園緑地課の人々であった。30年たったいま、この彫刻展に賭けられたそれらの方々の情熱が私の内にひしひしと熱く伝わってくるのである。その度にいつも肝に命じて教えられたのは、街づくりというのは、やはり人づくりなのだな、ということだった。
この彫刻展がはじまる直前の宇部市は”煤煙の街”の代名詞がついていた。私の記憶違いがなければ、たしか当時の宇部市の降ジン量は、1平方キロメートルあたり月間50トンを超えてわが国の都市の中でも大気汚染ワーストNO1の汚名を着せられていたはずである。多分、若い世代はそんな過去を今日の宇部市の良好な環境からは想像もできないはずだ。先達たちの緑化への情熱は、そんな逆境の中でたぎり、汚名を一掃していった。「花いっぱいの緑化運動」が芸術の心と不可分に結びつきながら都市空間が次第に甦生していく姿は、筆舌に尽くしがたい苦労もあったろうが、端で見ていて感動的なものだった。
いまでこそ「彫刻による街づくり」は、多く都市で当たり前の常識になってきている。ときどきそのノウ・ハウの相談を受けるときが多いが、そんなときは必ず宇部市の例を引き合に出して答えることにしている。
「なによりも行政者の熱意、人づくりなのです。宇部市の彫刻展の会場は、毎年多くの身障者や障害者の人々によって清掃されています。議員さんたちは、彫刻展の受賞式には、全員が議会を休会してまでかけつけ、アーチストたちの労をねぎらうべくホスト役を引き受けられます。あなたの市では、さて、そのような彫刻への理解やコンセンサスができますか」と。
たいていの行政担当者は、たったそれだけのことでもびっくり、自信なさそうに照れ笑いをするのが関の山である。
楽しく歩ける町・宇部は、そのような人づくり街づくり、そして公共的修景計画のさまざまなキイワードを秘めながら彫刻都市の発信基地となっていった。たとえば宇部市の空の玄関口、宇部空港を降り立った人は、そこにさわやかな一陣の風が吹き抜ける思いをされた経験があるだろう。岩城信嘉さんの「風の譜」(第10回展の大賞)がすぐ目の前にあるからである。四本の白い御影石の円柱が、大地の中からくねりながら寄り添い、伸び立ち、丸い断面の顔を太陽に向けている。まるで宇部市民の健康的な公共心を象徴している。いったん街に入り、市役所前から真締川沿いに下ると、そこには奇抜な抽象彫刻「WIG・A」が座している。8回展の宇部興産賞、清水九兵衛さんの彫刻だ。「WIG」とは、かつらのこと。ここに住む住民たちの余裕とユーモア、そして誇りの冠のような気がしてくる。文化会館の玄関脇に光っている鮮烈な彫刻は多田美波さんの「双極子」(7回・宇部興産賞)。日射しの反射で目が眩む。強化ガラスの透明さが、子供たちの眩ゆい将来を予感させる。白鳥の浮かぶ常盤公園の東・桜山へ入ると、そこには土谷武さんの「小さなピラミッド」(6回・大賞)。両脇の石彫に渡し掛けた鉄板の上にピラミットがのっており、何か、地中深く眠っていた文化財がいま発掘されたかのたたずまいだ。同じ公園の香りの森には最上寿之さんの彫刻「イッテミヨウアノヨマデ」(第7回毎日新聞社賞)。巨大な自然石の頂上を円柱形にくり抜いて、その分だけ、ずずずっと頭が宙にせり出している。脳天に不意打ちをくらった、とでもいいたいユーモラスな造形だ。
この町を歩いてしみじみ思うのは、そのような造形物たちが刺激してくれる空間である。あるものは、あくせくした気持にじわりと何かを浸透させていく。何かが甦える。大地の起伏、風の音、光、水、空気の質……。忘れかけていたものが新に身体を震えさせる。陽気さがこみあげる。心理的緊張と冒険心をくすぐる。こんなとき、人は街の中で、遠くなったり近くなったりする「場所」や空間を意識する。流動する空間が肌に触れ、光景が新鮮さを取り戻す。彫刻が街並みを修景する瞬間といえるだろう。
宇部市の町が、だからといって現代都市として完壁だ、というわけではない。ひどい建築もあるし、みにくい街並みも多い。だが都市は流動していくものだ。いろんな場所が死に至り、そして蘇生する。「場所」というのはにぎやかでもありもの淋しいものだ。陽気であって同時に暗いものでもあるだろう。過去を探がし出したいし未来も予感したい。だが二者択一の選定こそ都市を誤まらすだろう、場所を死へ至らせるだろう。平均化させてしまうだろう。そんなとき、彫刻という一見無駄な邪魔物(芸術)が、二者択一の間に割り込むことによって「場所」は生き生きと活性化していくはずだ。私たちは少しばかりヘソ曲がりだから、そんなバナキュラーな空間をどこかで希んでいるところがある。
まもなく21Cを迎える。美術館の館から飛び出した野外彫刻は、街並み修景としての効用ばかりでなく、21C都市社会そのものの接着剤となっていくはずである。コミュニティのパラダイムの役を果たすだろう。いまは、彫刻も日本の都市そのものと同様に過渡期であると思われる。抽象がいいとか具象がいいとかいっている時代は過ぎた。要は芸術が醇し出すものが「場所」を如何に活性化させ、人の気持を流動的なものとしていくかにかかっている。文化会館やホールを建てるハード・ウェアの優先だけでは都市は生きない。流動的な祝祭空間に似た「場所」の創造こそ都市を再生させていくだろう。
宇部は市政七十年を迎えた。新たな都市づくりが問われる区切りの年でもある。「第14回現代日本彫刻展」の10人の招待作家の顔ぶれが例年になく若返えり、さらに公募部門の作家が例年より5人もふえて15人となったいきさつも、主催者側の新たな都市づくりへの意欲とも受け取れる。芸術家たちも問われている。市民も問われている。
(埼玉県立近代美術館長)