UBE BIENNALE

草創期の野外彫刻(1991-図録)

土谷 武

「現代日本彫刻展」は1965年に始まり今年で十四回を迎える。第一回展の始まる四年前、1961年には「宇部市野外彫刻展」が、1963年には「第一回全国彫刻コンクール応募展」が同じ宇部市常盤公園で開かれている。野外展の草創期ということになると、この二つを併せて考えないわけにはゆかない。私が野外展に参加したのは「第1回全国彫刻コンクール応募展」からで、出品者としてあの頃のことを振り返ってみたい。

二十八年前のカタログの巻頭言には土方定一先生の言葉があり中程に次の一節がある。「参加作家は、この自然環境のなかで、あらためて野外に置かれた彫刻の本質を反省し、彫刻のもつ自然的、精神的環境について反省せざるを得なかったにちがいない。現代彫刻の新しい実験と前進のための第一歩がここにはじまった、といっても誇張ではなかろう」先生のこの言葉には応募者、出品者である私達に対する熱い期待があり、野外展の方向性も示唆されていて、今あらためて直接聞く思いがする。

主催者側の宇部市、日本美術館企画協議会、毎日新聞社、協賛の宇部興産株式会社の方々と、私達出品者のあいだに、滅多にないような信頼と緊密な一体感を感じたものである。

ユーゴスラビヤ、オーストリヤ、西ベルリン、イスラエル等、ヨーロッパ各地では1960年前後から彫刻シンポジュームが開催されていた。それ以前にもアントワープビエンナーレ、北イタリヤのスポレットの野外展があり、日本における最初のものとして「宇部市野外彫刻展」が開催される状況が海外にはあったのである。それにしても、何故宇部なのかと今にして思う事だが、事の顛末は知らないながら、偏見がなく閉鎖的なところのない市民性が、これを育てたのであるとも思う。直接には土方先生はじめ星出宇部市長、岩城宇部市立図書館長や彫刻界の柳原義達、向井良吉の両氏に上田女史などの熱意によって周到な準備がなされ開催に漕ぎつけたのである。

この頃、1963年には「国際石彫シンポジューム」が朝日新聞社主催で夏の真鶴で開催された。私ごとで恐縮だがこの年の春、丸二年間のパリ遊学を終えて私は帰国した。日本へ帰る前の九ヶ月間は、数人の友達と外人アルバイトとして彫刻家フランソワ・スターリイのもとで働いた。彼がアメリカのコンペで受賞した抽象の噴水彫刻の原形制作が仕事である。サンフランシスコに置くと聞いた。この労働は厳しかったがスターリイの野外彫刻に対する配慮は未経験であった私にも様々な問題を投げかけた。ここで体力的にも自信をつけ、帰国した年に日本でも野外彫刻展が始まったのは幸運と言えるかも知れない。

私は三十六歳であった。春、帰国、夏、真鶴のシンポジュームを見学、秋、宇部の「全国彫刻コンクール応募展」に応募する。渡仏以前は具象彫刻をやっていた私にとって、日本で一から始める仕事であった。

「国際石彫シンポジューム」には海外から次の人々が参加している。

リプシイ、シニョーリィ、クーチュリエ、カルディナス、ポンセ、バウマンなどで、日本からは本郷新、野水信、毛利武志郎、水井康夫、木村賢太郎、鈴木実の諸氏である。

このシンポジュームの意義はパーティで歓談することより、石を彫ることで作家としての生活を共にしお互いの交流を密にしたことにあった。石彫家と認められている人だけが参加しているわけではなかったから、彫刻家だったら石も木も金属もやってできないことはないと、私はこのシンポジュームから強い刺激をうける。

「全国彫刻コンクール応募展」について述べると、招待作家を除き出品者は二十代後半から四十代そこそこまでの年齢層である。一昨年の十三回展では殆どが無所属であるが、当時は、二科展、新制作展、自由美術展などの団体に所属している者が無所属の倍くらいあった。旧来の彫刻概念を守り通す程でもないが、先端的な芸術運動に身を投ずるにはためらいがある中間層とでも言えようか。この年代は彫刻の基礎的なノウハウを知って、自分でものを造ることがやっと可能になった世代でもある。団体展の外で作家としての自分を賭けてみる気負いがあり、所属しながらも枠を越えて他の団体の作家や無所属の作家達と知りあうことになる。

当時の入選作品は、大抵のものが二メートル前後であり、ささやかな感がある。ささやかなのはこの世代のおおかたの生活でもあって、工場に発注して造る才覚はなし、独力で手仕事をしたのである。野外に向けて造ってみたい欲求と体力が、唯一の頼みとなっていた。だから多寡を問わず賞金はありがたかったし、次の仕事もつづけられるメドをつけてくれた。仕事場もわが家の裏庭から石切場へ、工場へと移ってゆくが、作家としての私の歩みに、重要なポイントとして「全国彫刻コンクール応募展」がある。それが宇部であり、今も様々なことが思い出されて、鮮やかである。

抽象彫刻が日本の社会に受け入れられるようになったのは、野外展のもたらしたものの一つである。「宇部市野外彫刻展」から30年を経た今日、都市では地域のどこかで彫刻を見かける。記念碑や銅像以外に、彫刻が美術館や画廊から街のなかに出てきたのである。具象よりも抽象が多いのは、戦後の日本の都市空間が抽象表現にふさわしいような街に変貌、発展してきていることも見逃せない。

私は、野外展に出品し始めた頃、グループで建築彫刻をやったが、積極的にそちらの方へ歩き出す気持ちにならなかった。私の造りたいものとの接点が見出せなかったのである。あの頃は彫刻を外に出すだけで満足していた。私にとって造形のさまざまな問題が露呈してみえたからである。それらは見つけ出したからそれで終り、といった性格のものではない。繰り返し繰り返し実際に造ってみるものである。それが自分の問題になるのは、自分が何を考えているのか解らなくなるところからはじまるのかも知れない。

野外彫刻を始めてからアトリエは発想をまとめるための試行錯誤の場となり、実際の仕事場は石切り場や工場になっていった。採石の山をみながら石工と共に働き、工場では金属を扱う技術を覚えるわけで、初心者としてこれは未知の世界への驚異と言ってもいいほど感動的なことであった。石切場の臨場感に酔い、金属の材質感に打たれ、技術を修得してみたら違和感がでてきた。効率や実利は正当なことだが、そのままでは美術として不当な扱いになることもある。こうしたことは、アトリエだけが仕事場であった頃には考えてもみなかった方向から「美術とは何か」と問い返されているようで、考えざるを得ない。

第十三回展のカタログに河北倫明先生が「現代日本彫刻に際して」を書いておられる。これは四半世紀の美術界の変貌を書かれたもので、最初の土方先生に加えてその一部を掲載させていただく。

『今日の美術は魅力を一身に備えるといった式の昔の独立完結型の作品とは容易につながらず、生まれながらにしていわば、非連続型、バラバラ部品型の中にあるといってよい。その意味で、作品がそれぞれ独創的、個性的であればあるほど、社会的には何らかの意味の編集者、解説者、取りまとめ役の存在を必要としていると見なさねばなるまい。現代美術はこういう意味で、美術館とか、展覧会企画者とか、自治体とか、企業とか、そうした作品の外にある編集者、解説者、批評家、取りまとめ役の手を待ってはじめて補完されるということになっている。この見方からすると、現代美術は、きわめて多様にして勝手な非連続的感覚情報としてひろがりつつある。ますます多種類化、断片化を深めながら、遠く離れ去った連続的体系に対し、切ない憧れの眼差しを向けながら歩いているということかも知れない。一方に「展示の美」を具現する創造カと才能が必然的に渇望されているということであろう。』

これは十三回展の発言であるから記憶に新しい方も多いとは思ったが、二十八年前の土方先生の巻頭言と重ねて読みあわせてみたかったのである。多様化、断片化しているのは作品だけではなく、作家をとりまく状況もまた同様で評論家、自治体、企業も含めてそれぞれの役割と存在理由がはっきりしてきた。宇部の最初の野外展でも実現された条件は同じだったと思うがここまでは意識化されていない。要請があって彫刻を造る場合もあるが、作家はいつも企画に応じてものを造るわけでもないので、今より以上に多様な広がりと独自の世界にこだわり続けることになるだろう。「展示の美」を具現するにしても作家には、ひとり一人の世界を保ちつづけられる環境が許容される寛大さが欲しいのである、美術をとりまく機構と作家はお互いを認めあう接点に、いささかの距離は必要であると思う。

(彫刻家 日本大学教授)

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