UBE BIENNALE

第14回現代彫刻展によせて(1991-図録)

河北 倫明

第14回現代彫刻展は一つの大きな節目となる展覧会のようである。それは、この会が現代彫刻展の前景である常盤公園で催された最初の野外彫刻展の年から数えて、ちょうど30年になるというだけでなく、また宇部市の市制施行70周年の年にも当るからである。そのめでたさを讃える意味も含めて、今回の展覧会のテーマは「宇部讃歌」と定められた。名実ともに記念の会となることを目ざしたわけである。

そういうこともあって、出品作家の面でも招待作家の10名という数は変わらないが、コンクールで選ばれる作家の数は10人から15人と増加された。従って展示会場も、これまでの公園地域に加えて湖側に面した新しい地域を加え、従来以上広々としたものとなった。おそらく今回の展覧会は、そうした配慮もこめられて今まで以上の壮観となることが期待されている。

しかし、私が一つ節目となるであろうと予測するのは、そうした出品作家数と会場だけの問題ではない。この歴史ある野外彫刻展自体に、今回あたりから徐々に新しい風が吹きはじめるのではないか、とひそかな希望的観測を寄せているからである。もちろん、そうした中身の変化というものは一挙に具現するものではない。いつか知らず芽ばえ、少しづつ形をあらわし、やがて気がついたときには、以前になかったものが大きく成長しているというようなのが芸術上の変化である。そういう変化の芽がどこかに蠢動するような、そういう年に来ているのではなかろうか、といった気持ちで私はこんどの第14回展を迎えているわけである。

これと絡む話だが、最近のソ連の状勢は私どもだけでなく、世界中にさまざまな波紋を投げかけた。もちろん、事はさしあたり政治、社会、経済上の局面のようにみえるが、この動きはそう簡単ではない。あのエリツィン氏を筆頭するロシア共和国をはじめ、数多くの共和国の動向は、久しく共産主義によって画一的に規制されていた各民族各文化の在り方にやがて大きな変化が生れていくだろうことを予測させる。少なくとも、これまでとは違った局面が各地で発生し、そこにザワザワとした文化の蠢動が芽生えてくることは確かだろう。そういう意味では、ひろく地球上に、これからあちこちで少しづつそうした蠢動が連鎖的に引起されていくような気配が伝わって来ないでもない。

過日、日本経済新聞を見ていたら、京大の矢野暢教授の地球時代の新しい価値感覚を期待する一文が出ていた。氏によると、ソ連の政変が保守派の敗北で終り、ゴルバチョフによる「上からのペレストロイカ」は、これからは民衆の手による「下からのペレストロイカ」に変っていくだろうという。そして、市民の価値感覚は、今まではもっぱら政治的な理念本位に考えられていたし、革命をやって保守反動とたたかいさえすれば市民性が得られるといった式のものであった。市民の「私生活」や「家庭生活」の充実こそが、ほんとうの市民のゆたかさの基盤であるという発想は、これまでは資本主義的として退けられていたわけだ。しかし、そういう基盤を充してこそ良い生活が来るという風に、大きく方向を転じつつあるのがソ連の現況のようである。そこで矢野氏は日本についていう。

「私たちの家電産業や自動車産業など、日常的生活様式を満たすための産業が、いわゆる構造は、当初、いっけんひよわにみえたものの、結果的には正しい選択であった。それは世界文明の型さえ変えてしまいかねないほどであって、民生商品の生産の構造は、日本の”豊かさ”に世界の眼を注がせる結果になったのである。」と。

しかし、氏も注意しているように、日本はソ連とちがって大へんな物の豊かさこそ実現したものの、その豊かさが人間の内面的な深みと結びついた文化的豊かさにまでは至っていない。たとえ貯金がいくらあっても、株券をいくら持っても、それがすぐ本当の豊かさとならないことは万人が知っているとおりである。巨億の富があっても、大へんな美術品のコレクションがあっても、ときにはそれが却って人間性の貧寒さだけを示す感じが否めない。本当のゆたかさ、本当の「私生活」や「家庭生活」の充実、さらにいえば真の人間の幸福は、そういうものとは違った次元にあることが、だんだん今日の日本でも自覚されて来つつあるように私は感じている。

真のゆたかさ、本当の人間生活の幸福は、どのようにして、又どういうふうに実現されていくのか。いってみれば、これは人類の窮極的を大課題であり、地球時代の新しい価値感と関わる大問題である。それは政治や社会の外の局面からの解答もさることながら、やはり内部の心の問題として深く宗教、芸術の局面と関わるところが大きいであろう。宇部の野外彫刻展が他都市に先がけて求めて来たものも、単なる都市計画、道路や施設や公園の形式的な整備から一歩踏みこんで、そこに緑ゆたかな自然と芸術の新しい結合を築きあげることに目標があった。そこに市民生活と自立環境との心やすらぐ調和や、美しい都市景観などが希求され、政治や社会の局面に内面的な心の問題を、彫刻展を通じて柔らかくつないで行こうとした。つまり極めて高邁な試みが企てられたといってよい。そして、このような高邁な試みこそ、実は前にのべられた「下からのペレストロイカ」の中身となる大切なものを含んでいたのである。

大きく見ると、地球時代の新しい価値感覚は、変動するソ連ではさし当り私生活や家庭生感のための物のゆたかさの追求として出て来たようだが、私たちのところでは、物のゆたかさを裏打ちすべき内面的な深化と充実という別の次元のところで求められるようである。こうした各国、各地域の要求は地球時代の人類が各々それぞれの条件で求めながら、ぜんたいとしては大きく諧和する新価値体系となって寄合って行かなければなるまい。

その新しい価値観は、こうした地球時代のものとして、当然のことながら緑の環境に即すべきであると同時に、各地域の歴史と生命の発展に、しっかりとつながるものでなければならない。今回のテーマである「宇部讃歌」というのは、まさにこのようなつなぎ目に立つ新しい価値感覚を予想するものである。私が冒頭に、今回あたりから徐々に新しい風が吹きはじめるのではないか、といった意味もまさにこの点にある。

以上、とりとめのない談議をのべたのは、この野外彫刻30年、市制施行70周年の節目に当り、つらつら世上の動向に触発されてのことである。ローマは一日にして成らずといわれる。宇部の第14回現代日本彫刻展も、次代へ向う歴史の一駒として、しかし大切な節目の一駒として意義ある盛観となることを願っている。

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