第15現代日本彫刻展によせて(1993-図録)
河北 倫明
由緒ある宇部の現代日本彫刻展も第15回展を迎え、「翔」という未来志向を秘めたテーマで盛大にひらかれる。今年3月に刊行さ机た記念出版「宇部の彫刻」は、この歴史ある展覧会の発展のすがたをおのずからに含んで、関係して来た私どもには感慨深いものがあったが、そうした土台の上にさらに高く翔くべき秋がやってくるようである。
先般、ある新財団が設立されるにあたって、それに関連して、私は次のようなことを述べた。20世紀は大まとめに言えば、近代文化の時代であり、その展開と成熟の中に、地球的な多くの功罪を次第に表面化させてきたのが1990年代である。21世紀はその反省と超克の上に新しい道を模索せざるを得ないところに来ている。私どもの担うべき課題は、この近代の功罪が残した現代の地球上の状況にどう対応し、どう新しい道をつけていくべきかにあると。
そして、大略つぎのような提言を行なった。ソ運邦の解体、冷戦バランスの終焉、ヨーロッパ連合の模索、各地の民族粉争、などを通観して感じられることは、私流にいえば、「棲み分け」文化の新しい自覚と、「棲み拡げ」文化の反省的構築の問題である。20世紀の近代文化には、科学枝術を経済の発展というものを一部の力が無反省に押しひろげたところで生じた。いわば盲目的な「棲み拡げ」時代であり、その流れに巻かれて滅ぴるか、妥協するか、反抗するかの中で多くの転変が起った。わが国の文明開化以後の流れもその特殊な一例にすぎない。その中で生れ育ったわが国の近代芸術も、むろんそうした色合いの中の一例と考えるべきであろう。今後の行き方の戒心すべき第一点は、「棲み拡げ」文化のいわゆる名目的な国際文化の無反省な後追いであって、それが無意味なことは当然であるが、と同時に重要なのは、本当の文化芸術の軸心となるべき自らの「棲み分け」文化の深い根底を確立してかかることである。その深い根底からの共存的構築がなければ、21世紀の歩みは見かけ倒しの危険なものとなるだろう。新世紀の地球的な構築のためには、各種族共存による深い根底の確立がなくては、とても危くて建設には進めない。芸文界の優秀な才能には、この古くて新しい深い根底の探求を求めたいものである、と。
大ざっぱながら、そういう註文を、私はある新設の財団にかこつけて要望したのである。
この註文は、今日の、つまり20世紀末の日本の諸芸術に対する私自身の要望でもある。それはまた21世紀の新地球時代に対応すべきアイデンティティを持った各民族、各集団、各種の群れ的存在に対する私の希望でもある。この「棲み分け」の力の新しい汲み上げと、共存的「棲み拡げ」の工作力に関する新しい工夫がなければ、祝福すべき新世紀は望めないであろう。私は普通の人々以上にふだんから直観力を駆使している芸術家諸君こそ、この課題への挑戦者として、もっともふさわしい存在だと思っている。作品は、その挑戦にかかわる思考と行動の中から生れ出ることが望ましい。そうして生れた作品は、おのずからにして、新しい世紀に生きる人間の在り方、そのリズムと感性を示唆し、誘発していく役目を果すにちがいない。これこそ、社会における芸術の最大の特権であり、効能であり、本質的な存在理由であるといってよい。
由緒ある歴史の中に、20世紀日本の一時代を築いたと見られる宇部の現代彫刻展は、さらに有為の後代によって意欲的に継承されて行かなけれぱならない。良き出版であった「宇都の彫刻」は、20世紀彫刻の単なるエピローグとして記念されるだけでは残念である。それは、同時に21世紀のプロローグヘの良き示唆とつながりを含んでいるはずである。
最後に、出品作家諸賢も、関係当局の皆さんも、さらなる御自愛の上、御健闘あらんことを祈らずにはいられない。以上、第15回展の開催に当り、勝手な所見をならべてお祝いの言葉とさせていただく。