UBE BIENNALE

宇部の野外彫刻展からの軌跡(1995-図録)

江口 週

1965年、第1回現代日本彫刻展、このときにはじめて宇部市の常盤公園を訪れた。第1回展に出品した自作”砂上櫓”は、この時期の私の作品では大作といえるもので、東青梅の材木店から長尺の桜の木を仕入れて、その頃住んでいた府中の旧米軍住宅の敷地の一角で制作したものである。野外彫刻をはっきり意識したものではなかったようにも思うが、その大きさ等から外で制作しなけれぱならなかったことから、空地の多かった周辺の空間を無意識にとりこんでいたのかも知れない。いわゆる抽象彫刻をはじめてから6年目で、それまで2人の同級生とグループ活動を続けて来た私にとってははじめての桧舞台であった。その頃、画廊を経営していたY氏と2人で前日設置の状況を見て廻り、大賞受賞を知ったのは当日の朝の新聞であった。幸運にも賞を受けたことにより、その後の10年間、5回にわたって招待を受けることになるが、それと同時に、1968年から神戸須磨離宮公園現代彫刻展にも招待出品することになる。当時、選考委員長であった土方定一氏が1965年10月8日付の毎日新聞に、”転換期にきた彫刻”という表題で紹介論文を書かれているが、その中で「江口週の”砂上櫓”は、日本の小形木造船の形体の美しさが暗示となって、砂上に置かれた櫓の部分の幻想となったのであろうし、清潔で強い形体感をもっている、民芸的な形体を越えた日本的な感性と抽象形体の叙情となっている。」と書いていただいているが、ヘンリー・ムーアに代表されるヨーロッパの量塊的な彫刻から脱しようとした私の彫刻に対して、その空間表現を的確に示して下さっている。そして、他の受賞者について、篠田守男の”テンションとコンプレッション”を、空間を設計する技術者。野水信の”祭典”を、この作家の幻想の祭典の心理的形体。土谷武の”作品”を、抽象形体の組み立ての彫刻造形性と述べられているように、それぞれの作家が抽象彫刻の概念を、それぞれに確立し、発表しだした時代であった。さらに、現代日本の彫刻も、戦後20年を経て、ようやく広い積層を持ちはじめた。新人作家は、だれのエピゴーネンでもなく、現代の経験を、性格的に彫刻としていると評価されている。私も含めて、この時新人作家と呼ばれた1920年代後年から1930年代生まれの彫刻家達が、土方定一氏をはじめとする宇部市の運動に鼓舞されたのであり、この宇部市をはじめとする野外彫刻展でいわゆる野外彫刻活動をしていくことになる。それぞれの彫刻に対する概念の違いはあっても一つの方向性を掴んでいくことになる。そして、自己形成の上で、それぞれの作家が、その立場と方法論で自分の道をつき進んでいった時代であった。私の場合、1975年を最後に野外彫刻展から離れていくことになる。その原因は、木という素材の野外での耐久性の疑問と、その間の私の彫刻への反省から、より求心的な方向、一木彫りへの回帰を目指したことによるが、この頃の私の野外展への大作が、ほとんど反りと、撓みの形体からの木組みの作品が多く、又、意識するしないにかかわらず野外空間への挑戦が、私自身をしてこのような形体を選ぱせたこともあるが、その行為に対する空虚感がこの頃生じて来たことにもよる。いわゆる量塊への否定から出発した私の形体的な彫刻への再疑問が一つの転換の要素になったと考えている。この時から、主として個展で作品を発表していくことになる。

昨年11月、約20年ぷりにコンクール部門のマケット審査に参加させていただくために宇部市を訪問した。そして、この原稿を書くために、今回、第11回から第15回までの最近10年間の図録を送っていただいた。それらの図録の中に宇部の野外展に参画した3人の先輩彫刻家達が寄稿されているが、本来の彫刻の芸術性と独自性の問題、野外彫刻展から都市環境まで領域を拡げた都市空間と彫刻の問題、断片化している彫刻と、評論家、自治体、企業を含めた役割と存在の問題を提起されているが、これらは、宇部の野外彫刻展だけではなく、それにつながるもの、あるいはそれぞれの場でかかわった現代彫刻のあり方、その疑問から生まれたそれぞれの作家の自己の軌跡を通しての提起であり、共感を呼ぷところが多い。第1回展から数えて、30年を経た現在、この宇部の野外展だけではなく、神戸、箱根等各地に拡がっていった野外彫刻展、あるいは、コンペティション、シンポジウムは、その功罪を問わず種々の問題を提起している。又、各都市に新設された美術館、都市空間への彫刻の進出は、多様化された現在の状況の中でより断片的に現代彫刻が拡散されつつある。私達が、その出発点で考えた現代彫刻のあり方、抽象彫刻の一つの道は、あらゆる方向に分岐してそれぞれに分立しているように思われる。それは、一人の作家では把握しきれない芸術の存在の状況である。それらの分立する彫刻達が、それぞれの多彩なコンセプトによって、野外あるいは都市空間の中にある時代である。それは、かつて土方定一氏の積層のひろがりの時代から、拡散され分立する彫刻の時代であり、まさしく多様化する現在の様相である。土方定一氏の第1回展の論文の中ではあくまで現代日本彫刻の新らしい実験を賞賛し、その系列の成立を祝福することにとどめられている。そして、新らしい場を与えられた彫刻を芸術的未来にみていられる。

一昨年、はじめてシカゴヘいった。そのシカゴでのいわゆるシカゴ派の建築群の中に立つパブロ・ピカソ、あるいはアレキサーダー・カルダーの大彫刻をみる時、もはや歴史的な存在となったこれらの彫刻が、都市空間の中に屹立しているのは見事というしかなかった。建築と彫刻、あるいは都市空間の中の彫刻のあり方に、その創成期の現代美術のエネルギーを感じると同時に、その原形を見る思いがした。そして、日本における野外彫刻活動から都市彫刻にいたる現在の展開は、これらのものにつながる今世紀の彫刻運動の一つの延長上にあると考えられる。そしてその間、どれだけの芸術性を保ちながらこの運動が展開されて来たかを考えると疑問の余地は多い。又、今夏、新設の東京現代美術館で、アンソニー・カロ展をみたが、日本では有数の展示面積を持つこの美術館での一人の1924年生れのイギリス彫刻家の主として1960年からの現代彫刻の40年の一つの典型的な軌跡をみたが、このことから、それに比するものとして、日本の彫刻家達の独自の軌跡を再考することによって、彼我の彫刻に対する思念と形成の歴史を、その異質性と共通性の中に確認してみたい思いがする。そして、現代彫刻の未来性を考えてみたいのである。さらに、次世代に続く現代彫刻がその選択肢によってどのような形成をしていくかを共に体験しながらその成立を見守りたいと思うのである。

さて、最近の図録をみると既に出品作家の主流は、1940年代、1950年生れの作家達になっている。そして、これらの作家の多くが、その後展開された都市彫刻、あるいは種々の野外展の中でそのコンセプトを確立し、その現代の彼等の彫刻を展開している時代である。私達の奥底に残る彫刻概念からはなれて素材を物質視し、客観的な存在とする造形に向かっている時代である。このことは、現代の日本だけではなく世界的な奔流の中に呼応しているものである。それぞれの彫刻は規定されるものではないが、それぞれは分立し多彩な自己言語をもちすぎている。そして、都市環境という問題だけでなく、我々を取りかこむ世界環境は崩壊と再生の谷間に立っている。一般社会的にも私達は分立し、その共通項は失われていく。これらの失われていく共通項を、精神的、造形的な両面から総括し、再構成する作業がいわゆる野外展を含めた彫刻展の今後に課せられた問題であると思われる。

彫刻の展示場が美しく整傭されたが、常盤公園の芝生と池と緑の情景は今も変っていない。その展示の中では、都市空間と違った異質の自然と彫刻のあり方をのぞんでいるようである。いずれにしても、ビエンナーレ方式とはいえ、30年間にわたって、この同じ会場で一つの彫刻展が行われて来たことは、不思議なような気もするが、その持続性に敬意を表したいと思う。又、その最初からこのことにかかわってこられた運営委員の方々、宇部市の方々の努力は貴重なものと思わざるを得ない。今、ふりかえってみて、この野外彫刻展の会場をみるとき、私自身の彫刻の軌跡と現在の私を考えながら、この常盤公園が野外彫刻展の原風景のように思えてくるのである。

(彫刻家)

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