UBE BIENNALE

パブリック・アートを巡って(1997-図録)

中原 佑介

いつの頃からか、パブリック・アートという名称が使われるようになり、今ではかなり一般化しているようである。パブリック・アートという英語からすると、あるいはアメリカあたりで誕生したように思われるが、私はその辺の消息を詳らかにしない。パブリック・アート、訳せば公共芸術、あるいは公共美術ということになるだろうと思うが、今のところそういった訳語は登場していない。カタカナ表記が通用している。

私がパブリック・アートという言葉が公のものとして使われていることを知ったのは、東京都の新都庁舎の内外に絵画と彫刻を設置するための委員会の委員を委嘱された際だった。たしか、その委員会でパブリック・アートという言葉が採用されていたように思う。正直にいって、はじめはいくぶん違和感があったけれども、そのうちになんとなく馴れてしまった記憶がある。

それ以後、海外の美術館のブックショップや本屋へゆくと、パブリック・アートというタイトルの本が気になるようになった。そのうちの1冊に『公共の場所(パブリック・プレイス)のための美術』という表題のがあったが(マルコム・マイルス編著、ウインチェスター・スクール・オブ・アート・プレス)、この表題がパブリック・アートのもっとも簡にして要を得た定義ではないかと思う。

しかし、それはそれでいいのだが、それではこの「公共の場所」とは何かという問いが生まれてくる。美術館、とりわけ国公立の美術館は公共の場所とは見ないのだろうか。公共の場所に対置されるものは「私的な場所」(プライベイト・プレイス)ということになろうかと思うが、公の美術館が私的な場所であるとは考えにくい。しかし、それを指して公共の場所とはいわないのが普通ではあろう。すると、当然ながら美術館に展示される作品はパブリック・アートではないということにならざるを得ない。どうやら、パブリック・アートという概念には、公共の場所のための美術ということに加えて、なにがしかのさらさらなる限定があるようである。

パブリック・アートという名称のことを持ちだしたのは他でもない。かつては野外彫刻、あるいは屋外彫刻といわれてきた作品にたいして、それらをパブリック・アートと呼ぶ頻度が多くなっているからである。因みに、「公共の場所のための美術」は彫刻だけに限られない。たとえば壁画もそうであり、壁画もまたパブリック・アートである。しかし、ここでは「現代日本彫刻展」を主題にして彫刻をとりあげたいと思う。

美術館を「公共の場所」と見ることがないのは、それは美術愛好家のための特別の場所、もしくは空間であって、施設は公共的であってもそこへゆく人は限定されているという見方に因っているにちがいない。それにたいして、公共の場所とは美術に関していえば、美術に関心のある人にもない人にも平等に開かれている場所ということになろう。簡単にいえば、公共の場所に設置された彫刻は、それに関心を持つ人は作品を見るだろうし、関心のない人は素通りするか、あるいは反発する対象になる。それが公共の場所の特性である。「現代日本彫刻展」は基本的にいえば、美術愛好家、もしくは彫刻愛好家のための展覧会に他ならない。それにたいして、その彫刻展に展示された作品が宇部市の市内に設置されると、これは公共の場所のための美術作品になり、展覧会での作品とは異質のものとならざるを得ない。つまり、それはパブリック・アートだということになるからである。作品に関心の強い人、無関心の人がいてふしぎではない。パブリック・アートの避けることのできない宿命である。

宇部市は公共の場所に彫刻を設置するということの先鞭をつけたことで特筆される。この国における、都市のなかに彫刻を置くという事業のガイドブックをつくったといって過言ではない。パブリック・アートのガイドブックである。しかし、その功績が大きいだけに、今日いうところのパブリック・アートとしての野外彫刻を、改めて検討し直す先鞭をまたつけるべき時期ではないかと思う。

それは、パブリック・アート、つまり公共の場所に設置される美術作品を、絵画や彫刻という個別的な作品に限定させず、漢然としたいい方になるけれども、環境的な作品にもっと着目すべきではないかということである。ここで、環境的というのは、それが設置される場所の地形、周囲の環境、空間を深く考慮した作品の実現である。多分、そういう配慮をもっとも強く示しているのは、フランスのパブリック・アートだと思う。マルタ・パンやダニ・カラヴァンの作品はほとんど都市計画の一端というに近い。

現行のこの国のパブリック・アート、とりわけ公共彫刻、パブリック・スカルプチャーはまだ屋根のない展示場での彫刻の展示という性格が顕著であることを否定できないと思う。都市のなかの彫刻は都市の景観の大きな要素であるにもかかわらず、都市景観としての彫刻という発想がまだまだ稀薄である。つまり、都市環境のなかで孤立している印象をあたえる彫刻が多い。

さて、ここでもうひとつの間題がある。それは野外彫刻について、彫刻のモニュメンタリティの喪失が論じられて久しいということである。現代の野外彫刻でモニュメンタリティをあらわすどのような根拠も失われてしまったというのが、論議の土台だった。私もまたそういう論議に荷担したことがある。しかし、歴史的な事象のモニュメントでなくとも、パブリック・アートにはある種のモニュメンタリティが不可欠ではないかと今では思うようになった。

それは曖昧ないい方になるが、都市のモニュメントといった意味合いにおいてである。都市の景観、あるいは都市環境と密接な関連を持てば、当然それは都市のモニュメントという性格を帯びざるを得ない筈である。彫刻による都市の美化というのは、それ以外によってはあり得ないと思う。私は彫刻作品そのものが都市を美化するとはまったく考えていない。彫刻が設置されることによって環境に変化をあたえることが、都市景観に変化をあたえる出発点だからである。それが、都市景観を美化するかどうかは、環境整備にかかっている。先程いったのは、パッブリック・アートとは、美術家が環境整備まで考慮するような美術だということだった。

「現代日本彫刻展」についていえば、私はこのところ、出品者がこういった問題をどのあたりまで考えているのかなと憶測しながら作品を見てきた。単に大きな彫刻というだけでは、公共の場所の彫刻ということにはならない。それは美術館での彫刻と変わらないからである。

パブリック・アートというのは、じつは屋内外とは関係がない。屋根があろうとなかろうと、公共の場所で作品の公共性を意識した作品は、すべてパブリックなものといっていい。ピカソの『ゲルニカ』もパブリック・アートである。パブリック・アートという言葉が一般化されるなら、美術作品の公共性を再考すべきだと思う。野外彫刻と公共彫刻。これは単に呼称の違いともいえるけれども、しかし、そこでいおうとしていることは同じではない。そして、今検討されるべきは公共彫刻についてではないかと思う。

野外彫刻、屋外彫刻という言葉は、今となっては美術館の外に出た彫刻という響きが残っている。公共彫刻、パブリック・スカルプチャーという名称にともなう新たな問題点を追及すべき時期のように思う。

(美術評諭家)

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