UBE BIENNALE

パブリック・アートの現在(2001-図録)

木村 重信

パブリック・アートという言葉や概念はアメリカでうまれた。1930年代にルーズベルト大統領によるニューディール政策以後、国や自治体がインフラストラクチャーの再建に芸術家の力を積極的に活用したことに始まる。このパブリック・アートは、わが国では美しい都市景観の形成や地域振興の手段として、地方自治体などの公的機関によって設置されることが多いが、民間企業によるものもある。その先鞭は1961年に宇部市がつけたが、現在では300以上の自治体(全国の約1割)がおこなっており、1万点以上の作品があるといわれる。このパブリック・アートに関連して、いわゆる「1%システム」が1973年に長野市で始められた。これは公共施設の総建設費の1%を芸術にあてようとするもので、1951年にフランスで制度化され、その後イタリアやドイツなどに広まり、わが国に及んだ。(わが国の実状については後述する)

最近、韓国を訪れたのを機に、ソウルのパブリック・アートを見てまわった。韓国には前述の1%制度があり、公的建造物だけでなく、民間の建造物にも適用している。その機縁となったのは、1988年のソウル・オリンピックの際におこなわれた野外彫刻シンポジウムの成功で、68ヵ国の作家による201点が、約150万平方メートルの記念公園に6ヵ所にわかれて展示されている。

メーン・ゲート(東門)を入り、ミーティング・エリアを通り抜けると、広い空間にスタッチョーリ(イタリア)の高さ37メートル、幅28メートルの巨大な三日月形の彫刻『ソウル ’88オリンピック』がある。正面からは広大な庭を背景に、斜めから壮大なスタジアムをバックにそびえている。そのほか、アヴァカノヴィッチ(ポーランド)、セザール(フランス)、リッキー(アメリカ)、アーミテージ(イギリス)などの作品があり、わが国の井上武吉、清水九兵衛、村岡三郎、新宮晋、田中信太郎の彫刻もある。

韓国ではその後、パブリック・アートの制作者を選定するための組織が各市につくられ、ソウルにも作家と美術評論家など10人による環境美術審議会がある。その委員をつとめたことのある4人の美術館長らに会って話を聞いたが、審議会に情実や不正がはびこり、したがって委員は年毎に変わることになっているが、それでも有効に機能していないとのことであった。実際にソウル中心部の鍾路区、明洞区、江南区の野外彫刻を見てまわった私の印象もあまりよくなかった。多くは抽象彫刻であるが、20人ほどの作家に限られていて、類型的であった。造形的に優れていないだけでなく、環境との関係が密接でないものが多かった。

わが国でもパブリック・アートの功罪が論じられるようになった。ある研究団体が各所に設置されている作品の幸福度を5段階にわけて調査したところ、「不幸」なものが多かったとのことである。例えば、大阪市弁天町のオーク200の高いドームの中央に設置されている、セバスティアン(メキシコ)の彫刻のまわりには様々な物品がたくさん置かれて、すばらしい彫刻が台無しになっている。

普通の彫刻と野外彫刻とはその性格を異にする。美術館内の彫刻はニュートラルな空間に置かれるものとして、それ自体が個性的かつ求心的であることが望まれる。しかし野外彫刻は、屋内彫刻のように周囲から自らを切り離して内に閉じこもって完結するのではない。それ自体は中性的でありながら、環境と関連することによって個性を発揮するものであり、したがって遠心的な空間を示すことが求められる。風や水や光などを効果的に用いた彫刻が好まれるのは、このためである。例えば、豊中市千里中央に飯田善國のステンレス鏡面の彫刻がある。ベアリングを用いているので、数枚の金属板が風の強弱によって刻々にその形を変えながら、まわりの建物や人物を写しだす。この彫刻が特に美しさを発揮するのは夜である。周囲の光を反映しているのだが、自ら七彩の光を発しているかのように見える。

前述のように、わが国のパブリック・アートの先駆は、1961年に始まった「宇部市野外彫刻展」で、常盤公園で開催された。そして同年に「宇部を彫刻で飾る事業の事務局設置要項」をつくった。次いで1968年に神戸市が「須磨離宮公園現代彫刻展」を開始し、買上作品を市内の公共空間に設置した。その後、横浜市が大通り公園にパブリック・アートを導入した(1968年計画、1973年完成)。

1971年に環境庁が発足し、72年には「自然環境保全法」が制定され、73年頃から「彫刻のある町づくり」が「文化の時代」や「地方の時代」とも関連して、各地でおこなわれるようになる。また、73年に長野市で「文化のための1%システム」が始まる。このシステムはその後、八王子市(76年)、仙台市(77年)、神奈川県(78年)、兵庫県と滋賀県(79年)でも採用された。

兵庫県の「生活文化を創る1%システム」はきわめてユニークである。というのは、他の県や市では彫刻や壁画などのような、全体から区別できるハードなものが多いが、兵庫県では全体のなかに組み込まれて区別できないものが多く、いわばソフトなデザインが重視されている。例えば、赤穂高校は「地域のシンボルとしての県立高校」というテーマのもとに、校舎の配置計画、玄関ホール、塔屋、広場が1%システムによって付加されている。すなわち、教室棟を一般的な並行配置型からコの字型プランに変え、学校および地域の各種の催しのための広場をつくるとともに、海浜公園や瀬戸内海を望見できるようにした。このデザインはすばらしい。

このことの背後には、「1%システムから〈100+アルファ〉%システムへ」という考えがひそんでいる。つまり、単に1%の芸術的価値を付加するのではなく、数字に換算し難い知恵を導入することのできるシステムであるべきだとする考えである。このことを指して、私は先にソフトなデザインの重視といったわけである。

パブリック・アートの選定方法は種々あるが、指名ないし公募によるマケットのコンペが成功率が高い。つまり、作家を選ぶのではなく、作品を選ぶわけである。そこで問題となるのは、誰が選ぶのかということである。

1994年、住宅・都市整備公団が立川基地跡地開発の一環として「ファーレ立川」をおこなった。36ヵ国の92人による109点の作品が街中に点在している。予算は9億円。このプロジェクトが完成した直後、ニューヨーク・タイムズ紙は「日本以外のところでは、ほとんどあり得ないプロジェクトである」と報じた。つまり、このように行政当局が巨費を丸投げしてひとりの民間美術関係者に選定をまかせたり、「東京国際フォーラム」のように有識者からなる選定委員会が決定して、作品がある日突然に出現するようなことは、アメリカでは「ほとんどあり得ない」からである。しかも「東京国際フォーラム」を都庁内で担当した部署はプロジェクト完了後に解体された。したがって作家に関する情報や、実務上の問題点や反省点などの貴重な財産が何も残らないのは、驚くべきことである。

アメリカでは近年、永久設置の作品から、数年ないし十数年ごとに入れかえる一時設置型が多くなっている。そのことによって、実験的な作品にたいする市民の許容度が増し、無名の作家にも機会を与え得るようになった。

この一時設置型と関連して、大阪府は1981年にユニークな試みをした。それは大阪府立保健総合医療センターの玄関ロビーの壁画である。縦2.5メートル、横8.8メートルの壁画は、白無地のタイル張りで、水彩絵具で描き、水で消すことができる。そのため、壁画下の床には傾斜がつけられ、水を流すための溝がある。つまり、この壁画は、絵を描いては消し、また描くことができるようにつくられている。そして絵を描くのは地元の子供たちで、3ヵ月くらいのローテーションで描き直すきまりである。

また、大阪市は御堂筋彫刻ストリート計画を実施している。現在25点が設置されており、なお増設中である。全体のテーマは「人間讃歌」、モティーフは「人体」で、ブロンズ像に限定されているが、これは統一性のある景観を形成するためである。というのは、モティーフや材料がばらばらだと、個々の作品が優れていても、雑然とした印象を与えるからである。これまで設置された彫刻の大部分は女性像で、着衣像も裸婦像もある。裸婦像については女性の裸体を衆目にさらすのはどうか、という批判が一部にある。しかしこれはハダカと裸体の違いを認識していないことによる意見である。つまりnakedとnudeの違いである。nakedは着物が剥ぎとられていることであるが、nudeは再構成された身体を指す。したがって、nudeつまり裸体は芸術の主題ではなくて、芸術の一形式なのである。だからこそ、時代や地域によって、人体美の基準として、頭部と身体との比例関係が求められ、ギリシア的八頭身とかアフリカ的比例(六頭身以下)とかが成立したわけである。

御堂筋彫刻の最大の特色は、それぞれの彫刻が沿道企業などによって寄贈されることである。それは美しい景観形成に寄与すること以上に、大きな意味を有する。なぜなら、各企業ビルの玄関前の歩道に置かれた彫刻は、道行く人たちだけでなく、当該企業の社員の目に毎日ふれるわけであり、それが自負心や大阪にたいする愛着心を育むことになるからである。「ローマは一日にして成らず」というが、美しい都市景観も同じであり、市民ひとりひとりの感性錬磨が必要なのである。

(美術評論家)

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