UBE BIENNALE

現代日本彫刻展と山口の作家たち(2001-図録)

榎本 徹

1961年に「宇部市野外彫刻展」が開催されて、今年で40年になる。この展覧会は「全国彫刻コンクール応募展」(1963年)、「第1回現代日本彫刻展」(1965年)と展開し、「現代日本彫刻展」は今年で19回をむかえる。この間彫刻の世界だけでなく、日本の美術界全体に与えた影響は大きなものがある。もちろん、地元である山口県の美術の世界においては、この彫刻展の意味はきわめて大きなものがある。ここでは、山口県ゆかりの作家たちとこの彫刻展の関わりを考えてみたい。

1970年まで(「第3回現代日本彫刻展」まで)
この時期は、「宇部市野外彫刻展」「全国彫刻コンクール応募展」「現代日本彫刻展」の第1回から第3回までで、いわば彫刻展の模索期にあたる。

山口県ゆかりの作家としては、「第1回現代日本彫刻展」(以後回のみを記載)に植木茂と澄川喜一の名を見いだすのが初めである。植木茂は北海道札幌市の出身であるが、1946年中国から復員し、妻子のいた山口県長門市に住む。翌年単身で下関に移り、1951年まで下関に住んだ。第1回の1965年にはすでに大阪に移っていた。出品作の「トルソ」は植木の主要モチーフでこの時期には完成された姿を見せている。

澄川喜一は島根県六日市町の出身で、1945年山口県立岩国工業学校に入学、1951年の卒業まで岩国ですごした。この間、50年には台風による錦帯橋の崩壊を目のあたりにし、のちに「私が彫刻家になろうという志を初めて抱いたのは、実はこの時、この瞬間であったような気がする」と語っている。澄川は、第2回、第3回にも招待されている。

第3回には澄川とならんで田中米吉が出品している。田中米吉は1925年山口市に生まれた。宇部工業専門学校を卒業後、中学校の教師活動のかたわら絵を描いていたが、やがて退職、東京に出た。1965年、4年の東京生活から山口に帰り、「点字」シリーズに着手、やがて立体造形を手がけるようになる。第3回に出品したのは「ドッキング SKY 24」でドッキングシリーズの初期の作品であった。

1970年代(第4回~第8回)
第4回は「材料と彫刻」というテーマで「強化プラスチックによる」展覧会で、澄川が招待されている。「現代日本彫刻展」はこの第4回までが招待のみで、第5回以降招待に公募入選者が加えられることになる。その公募の第1回目に山口関係の作家2人が入選する。川口政宏と田辺武である。

川口政宏は1936年に東京に生まれた。東京教育大学を卒業後、自由美術展や新制作展に出品していた。この第5回展の2年後、1975年に山口大学の教官となり、2000年3月の退官まで勤務することになる。

田中米吉は第6回、第7回、第8回と続けて招待され、第6回は宇部市野外彫刻美術館賞、第7回は秀作賞、第8回は毎日新聞社賞を受賞している。第8回には澄川喜一も招待され、宇部市野外彫刻美術館賞を受賞した。また第8回には三輪龍作が入選している。三輪は1940年萩市に生まれた。東京芸術大学大学院を修了、前衛的な陶芸、とくに土での造形に情念の世界を展開した。第8回に出品した「古代の人」は、作家自身と夫人の墓で、自分を葬るというモチーフに、この時期転期をむかえていた作家の決意が感じられる。またこの作品は陶であるが、金属や石が主流のこの展覧会においては、「全国彫刻コンクール応募展」に招待された辻晉堂の陶彫や、第6回に招待された速水史朗の黒陶などに続いて陶作品としては早い部類に入るだろう。

ちなみに1979年に開館した山口県立美術館に屋外展示場がもうけられ、田中米吉「ドッキングNo.40」(第7回出品作)、川口政宏「作品B-1」(第5回出品作の類作)、田辺武「情景あるいはヘンデルの「水上の音楽」に捧げる」(第6回出品作)の3点が設置されたのも、この展覧会と地元の関わりを示している。

1980年代(第9回~第13回)
第9回では澄川喜一と田中米吉が招待され、澄川喜一が「そりのあるかたち」で毎日新聞社賞を受賞した。澄川は主要シリーズである「そりのあるかたち」を完成させつつあり、この頃から屋外のモニュメントの仕事が増えていた。1984年には山口県庁の全体計画にたずさわり、その中心モニュメントである「鷺舞の譜」で第13回吉田五十八賞を受賞した(1988年)。

田中米吉は第9回に続いて、第10回、第11回、第12回と連続して招待され、第10回には埼玉県立近代美術館賞を受賞、第11回には「無題No.95 1985」で大賞を受賞した。田中はのちにこの作品を「転期の一点」としている。また翌年には埼玉県立近代美術館において、建物の壁を貫く巨大なモニュメントを完成させ、注目された。

第13回においては濱野邦昭が模型入選を果した。濱野は1951年下関市に生まれた。74年に東京芸術大学卒業後、山口県美術展覧会などを主舞台にして活動していた。

1990年代(第14回~第18回)
第14回では殿敷侃が入選し、田辺武が模型入選した。殿敷は1942年広島市に生まれ、75年山口県長門市に移住した。70年代後半には、作家自身の原子爆弾二次被爆の体験にもとづいた細密な描写を見せた作品で注目され、やがて版画に移行する。さらに1982年のヨーロッパ旅行、とくに「ドクメンタ7」におけるボイスの作品に大きな衝撃を受け、翌年の山口県美術展覧会に「THE BUNCH OF BLACK REBEL(黒の反逆集団)」で約4トンのタイヤなどの廃品をぶちまけたインスタレーションを発表、その後果敢にインスタレーションを制作しつづけていた。第14回の「TYRE BEARING TREE(PLAN7)」は、すでにガンにおかされていた殿敷が多くの人々の協力でつくりあげた作品で、その翌年殿敷は死去しており、遺作とも呼ぶべき作品となった。

第15回では濱野邦昭と兼原啓二が入選し、濱野は山口県立美術館賞を受賞した。

兼原は1962年山口県阿武町に生まれた。89年には筑波大学大学院を修了、さらに芸術研究科生として2を過し、山口県に帰っている。出品作「蝕まれゆくエンタシス」は兼原が近年主要モチーフにしている作品である。

濱野は第15回に続き、第16回入選、第17回には模型入選、第18回には招待され、第16回でも山口県立美術館賞を受賞した。80年代に見せていた堅実な人体造形は、90年代に入るとデフォルメされ、作品の物語性が付与され、モニュメンタルなスケールを獲得しつつあった。

第16回にはたべ・けんぞうが入選し、第18回には招待され、兵庫県立近代美術館賞を受賞している。たべは1939年に岩国市に生まれた。幼少時に原子爆弾のきのこ雲を遠望した体験をもつという。1970年代から80年代にかけて直截的な反核表現を展開していたが、90年前後から廃品を使った作品に転じた。

第16回には森野清和が模型入選している。森野は1949年山口県豊浦町に生まれた。一貫して陶の分野で仕事をしているが、出品作「種の彷徨」シリーズでは素材を土に限定せず、木などさまざまな素材で作品を展開している。

第17回には笹勇俊が入選している。笹は1963年に下関市に生まれた。1991年沖縄県立芸術大学卒業、93年東京芸術大学研究科修了。92年から行動展に出品し、新人賞等を受賞、会友となったが96年に退会、現在は千葉県で活動している。

第17回と第18回で模型入選した大井秀規は1960年長門市に生まれた。1986年金沢美術工芸大学大学院を修了、在学中から金沢彫刻展や山口県美術展に出品していた。出品作「Gravitation」シリーズでは石との対話を深めつつあり、大井の主要モチーフである。

第18回には村中保彦が入選し、山口県立美術館賞を受賞した。村中は1955年に柳井市に生まれた。82年東京芸術大学大学院を修了、日本新世紀工芸展に出品を続けていたが近年退会した。工芸の世界に身を置くものが野外彫刻にいどむという村中のスタンスは、自身の専門である鋳金の技術だけでなく、さまざまな技術で作品に対峙している。

第18回に模型入選した司馬牛仁は、1939年宇部市に生まれており、この彫刻展における地元宇部市初の模型入選作家となった。

おわりに
10年毎に区切り、山口ゆかりの作家としてあげたのは15人である。この数については、岩城次郎氏がすでに「第1回全国彫刻コンクール応募展」の出品目録で西日本の作家の層のうすさを指摘している状況からあまり変化していないことを確認する以外にないだろう。

また15人についても、植木、澄川、川口、殿敷のように他県生まれでありながらも、のちに山口県と密接な関わりをもった作家や、たべのように山口県の生まれながら、その関わりが幼い時だけという作家などもおり、さまざまである。しかし、三輪、村中のようにいわゆる彫塑の分野以外からこの展覧会にいどむものがいるように、地元山口の作家たちに大きな役割を果たしたのも事実である。

都市緑化運動と密接に関わりつつ成立したこの展覧会は、野外彫刻展の先駆けとして、まさに一つの時代を築いてきた。そのなかで地元の作家が刺激を受け、育っていったのをあらためて確認してみるのも、新しい世紀をむかえたこの彫刻展の今後を見るうえでむだにはならないだろう。地元初の模型入選作家となった司馬牛仁は、子どもたちを相手に毎年石彫教室を開いている。地元からこの彫刻展で活躍する作家がひとりでも育ってほしいからだという。今年は21世紀未来博覧会(きらら博)にあわせて開催される。この展覧会もひとりでも多くの子どもたちに見てほしいと思う。

(山口県立美術館)

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