パブリック・アート― 都市化と地域活性化のはざまで(2003-図録)
谷 新
パブリック・アートと一般に呼ばれている主に街中の彫刻などが、今日どの程度、言葉やイメージとして一般に定着し、受け入れられているいるのかは、はっきり言って難しい。同じ町や地域に住む人に「駅前や公園にあるパブリック・アートを思い浮かべて欲しい」と仮に質問したところで、「パブリック・アートって何?」と問い返されるのがふつうだろう。宇都宮の駅前には大谷石でつくった「餃子像」(ギョーザの形をしたヴィーナス像)があって、れっきとしたパブリック・アートと言えるのだが、駅前のパブリック・アートでこの彫刻作品を思い浮かべる人は稀有だろう。場所は確かにパブリックだが、モティーフがギョーザとあっては、パブリックというイメージの対象として想起されにくい。ただこの言い方が不正解なのは、ギョーザだからパブリック・アートになりにくいと聞こえてしまうことだが、決してそういうことではない。同じように食品を題材にしても、クレス・オルデンバーグのモニュメンタルな作品のように、巨大なギョーザの像だったら、それを制作し展示するという意図に関する品性を問題にしなければ、モニュメンタルないかにもパブリック・アートというにふさわしい作品になりうる可能性はあるだろう。この場合のパブリックの基準は、遠目にも利く「スケール」という点が判断基準になる。では、大きくなければパブリックたりえないかというとそうではない。ブリュッセルのグラン・プラスにある「小便小僧」はギョーザの石像よりもっと小さなものだが、この地を訪れた観光客は必ずといってよいほどここに立ち寄るだろう。したがって「スケール」もパブリックの条件にはならない。このふたつのケースの違いを強いて言えば、商業観光的な行政的意図と、町をフランス軍に包囲されたとき、この地の王ブラバン公が木の上から小便を敵軍にかけたという歴史的故事に基づくというモニュメントのルーツの違いである。商業観光的な尾ひれがついたとすればそれは後世の話である。飛躍すれば、“サクリファイス(一身をささげる)”ほどの歴史的社会的事象にちなむものとして存在し持続してきたか、そうではない現世的な経済的意図によって形成されたかの違いである。しかし、このことをもって宇都宮を笑うわけにはいかないだろう。こうしたことは全国どこにでも存在している。
今日、パブリック・アートは、わざわざ“公共芸術”と訳す必要もないほど日本に定着したと考えられている。しかしそれは文頭で書いたように、どれだけ一般の人々にとって八、九分通りの了解性をもって定着しているのかは疑問だ。パブリック・アートの名のもとに、およそ“公共”の意味内容にふさわしくないような作品が乱立したり、どのような経緯でそのような作品が選ばれて設置されたのか、問い詰めていくと判断の根拠が希薄な作品が多いように思うのは私だけではないだろう。いや、公共性ということをかたくなにクリアしようとするあまりに、作品のクオリティーやそこの設置されるべき必然性を欠いた作品が幅を利かすという実情にもなる。“公共”とはどのようにも解釈可能な危険性といつも紙一重なのだ。加えてこうしたことを推進しようとする側と、気がついたらヘンな物体がそこにあって、立派な作品だからありがたく鑑賞しましょう、といって押し付けられる側とのギャップはいったいどの程度埋まってきたかははなはだ疑問である。ニューヨークのフェデラル・プラザにおけるリチャード・セラの巨大な敵の衝立作品「傾いた円弧」の設置(1981年)と破壊(89年)にいたる無数の論議が日本では闇に葬り去られる。“公共”とは与えられるものではなく、そうした個別事例を通じた論議の深まりによってしか形成されないし、一般の人々に根づいていかないだろう。宇部市の試みや歴史が評価されるとすれば、全国に先駆けた彫刻公募展という前に、廃墟の後の町づくりを市民が身をもって担おうとしたその決意のなかにこそ存在するものなのだろう。その平和的命題に基づく都市と自然環境を生かしたプロジェクトとして彫刻が選択されていくことになった。敗戦国ドイツの地方都市カッセルで戦後始まった現代美術のオリンピックとも称される世界最大級の国際美術展「ドクメンタ」の誕生のいきさつとそれは似ている。
今回20回目を迎えた宇部の「現代日本彫刻展」は1961年に始まり、木村重信氏が指摘しているように日本におけるパブリック・アートの先駆をなすが(第19回展カタログ参照)、いわゆるだれだれの記念像という意味では戦後を待つまでもない。日本にブロンズ彫刻が導入された明治以来、それは連綿と続いているし、彫刻やブロンズという素材以外のマテリアルにより、あるいは建物内外の公的私的な空間に設置される記念物という意味にまでパブリック・アートの解釈を広げれば、おそらく近代という歴史的規定性の枠組みのなかにパブリック・アートもすっぽりと組み入れられるほどのはまりやすさというものを本来もっているに違いない。大正末からの昭和の戦前には陽咸二らが集った「構造社」という彫刻家集団があり、建築や建築の内外装に彫刻家として関わることにより、彫刻が像対象をつくるだけではない“彫刻の構造化・空間化”に積極的に関心をもつようになる。パブリック・アートといった言辞こそないものの、その意識のなかには同様の志向性をみてとることができる。それは近代彫刻の時代になって逆に見失われた本来彫刻が担っていた内外の空間との関係律をふたたび見直す試みのひとつであったといってもよい。
さらに時代背景を加味してフィールドを広げて考えれば、関東大震災の塗り変わる都市環境・生活と「構造社」の志向は連動せざるをえない。パブリックたりうる要素はヒルデブラント的彫刻の視覚造形の問題とはまた別な角度から、すなわち都市のダイナミズムという動態空間からも生まれてくるだろう。
パブリック・アートという言葉が誕生し、今日のような一応の定着をみるかたわらにおいて「野外彫刻」という区分けもあり、これもパブリック・アートに関係している。堀内正和によると、戦前にはなかった野外彫刻展が日本で初めて開催されたのは1951年に日比谷公園で開かれた「第1回野外創作彫刻展」であったという。(「へそまがり野外彫刻私記」、『美術手帖』1986年6月号)戦争で銅像などほとんど拠出されてブロンズそのものがない時代に協賛の小野田セメントが出品作家に白セメントを提供したという。
野外は屋内に対する意味において成立しているが、展示室のような設えられた空間を超えるという意味において素材や設置のための制約も受ける。逆に彫刻が本来もっていた自然の樹木や建造物など外部的諸条件との関係を制作者の視界に呼び戻し、それを見る側においては彫刻が景観の一部であり、建造物の機能やそれらが集合した街区(サイト=光景)と交錯し融合する複雑な空間性を意識させる。
その意味では、単に野外というだけでは今日の野外彫刻は意味をなさなくなり、大枠としてパブリック・アートと呼ばれる作品も、何らかのサイト・スペシフィック(特殊な場の発現)な制作意図や景観を生み出しえないかぎり、乱立する無用の彫刻群にとって代わられるだろう。
最近、ふたつの事例を見分した。ひとつは10月にオープンする森美術館を含む「六本木ヒルズ」(東京・六本木)周辺の街区に設置された作品群であり、他は第2回目を迎えた「越後妻有アートトリエンナーレ2003」(新潟県)である。前者ではモニュメンタルな作品(ルイーズ・ブルジョワの「ママン」など)とベンチ代わりになる機能を兼ね備えた作品群に大きく色分けされるが、いかにも後からとってつけたように計画に組み込まれた印象はぬぐえない。唯一光るのは街路に面する建築構造を生かした宮島達男の「カウンター・ヴォイド」であり、従来のようなモニュメンタルな性格は希薄だが、機能性十分でこのサイトにふさわしい景観をつくっている。街区の建物やスペースに作品をプリゼンテーションする際、歩道、サイン、散水栓など街区に必要な“機能”にこまめにアートをからませていった「ファーレ立川」(東京・立川)はパブリック・アートにひとつの新しい解釈をもたらしたが、六本木ヒルズはこの角度の試行が希薄に思える。むしろ同じ都市型でモニュメンタルな作品設置が優先するが「新宿アイランド」(東京・新宿)のほうが、作品のバリエーションと展示方式のバランスがよい。
「越後妻有アートトリエンナーレ」は、ここ数年各地で盛んな村起こし町起こしの典型的な事例だが、2回目を迎えてさらに内容の充実を図った。プレハブだった十日町の情報センターは「越後妻有交流館キナーレ」という立派な建物になり、松代では「まつだい雪国農耕文化村センター」、松之山では「森ノ学校キョロロ」など、情報センター、展示スペース、地場商品や展覧会グッズの売場を備えた拠点施設をつくりあげた。トリエンナーレのある年はともかく、ふだんはどのように運営するのか心配になるが、第1回目にできたジェームズ・タレルの「光の館」は観客も多く完全に定着している。今回興味深かったのは、廃校となった小学校や廃屋を丸ごと作品にしている作家たちの仕事だった。クリスチャン・ボルタンスキーとジャン・カルマンの「夏の旅」、彦坂尚嘉の「田麦集落42戸物語」、日比野克彦の「明後日新聞社文化事業部」など。彼らはかつてパブリックであり、プライベートであった場を意識してこうした作品を構想しただろうか。むしろそうした概念的規定では決して救い上げることのできず、表現できないある過剰の淵に身を沈め、何が今日において、何が現代に生きる自身においてリアルなのかを、じっと自分に問いかけているようにも思えた。パブリック・アートが今後さらに進展するとすれば、一見パブリックとは無縁な作家のこうした取り組みにも目を向けていく必要があるだろう。(美術評論家)