UBE BIENNALE

「公共」の可能性(2005-図録)

隅 研吾

 パブリックアートをめぐる状況は、今、複雑を極めている。それは「公共」をめぐる状況の複雑さの反映でもある。「公共」(パブリック)は必要なのか、不要なのか、どんな種類の、どんな「大きさ」の公共が必要とされているのか。許容されるのか。具体的なレベルでは、このパブリックアートは税金の無駄使いか否か、といった形で、その複雑さは露呈される。もちろん、これはいわゆる公共建築をめぐる複雑な状況ともパラレルである。公共建築は必要なのか、不要なのか。どんな種類の、どんな「大きさ」の公共建築が必要とされているのか。許容されるのか。ここ30年、すなわち高度成長のラッシュのような時間が過ぎ去った後、われわれはずっとその論議をしてきたのだといってもいい。
 一方に、パブリックなものは、極力最少にすべきだという議論がある。議論を単純化していえば、このロジックはアメリカ型ロジックといってもいい。個人の自由こそ最も価値があり、公的なものは最少にとどめるべきだというロジックである。「大きな政府」よりは「小さな政府」(民営化)が好ましいという型の論議である。
 確かに自由は大切かもしれないが、このアメリカ型のロジックのいきつく所は弱肉強食の殺伐とした社会ではないかという不安はぬぐえない。アメリカのように、すでに社会が豊かで、公共的な社会資産の蓄積が充分な場所でのみ、「公的なものはもういらない」という結構な議論が可能なのではないかという反論もある。貧しい国々は、なけなしの税金をかき集めてこれから公的なものを築きあげていかなければならないのに、アメリカのロジックはそのような誠実な試みへの妨害であり、世界の全体をグローバル市場という名のアメリカ企業のマーケット化する戦略にすぎないのではないかという議論である。
 その手の「反アメリカ」のアートの世界における代表選手として、いつも僕が頭に浮かべるのは、イサム・ノグチである。アメリカで育ち、日本人としてアメリカ社会の様々な差別を体験したノグチだからこそ、アメリカ流の「自由」というロジックの奥にひそむ弱者に対する残酷さや「不自由」を敏感にかぎつけたのである。
 アメリカンロジックのアートの世界へのストレートな投影が、20世紀に全盛をきわめた「商品としてのアート」であると、ノグチは指摘する。空間から分離可能、運搬可能で、自由に世界を流通する商品としての絵画や立体作品。そのようにして投機の対象となったアートに対して、ノグチは嫌悪感を示す。それらのアメリカ流の商品アートに対抗して、ノグチが提唱したものは二つある。ひとつは、あかりシリーズのような、安価で小さな岐阜のちょうちん職人と協同で作った「製品」(商品ではなく)であり、もうひとつは、運搬、流通不可能な、その場所にべたっと密着したパブリックアートである。その集大成が近年完成した札幌モエレ沼公園のパブリックアートである。
 ノグチの「商品」に対する批評的活動は、20世紀後半以降のアートの世界に、きわめて大きな影響を与えた。今や、「製品」とパブリックアートは、アーティストの最も重要な活動領域となった。様々な社会経済的状況もその流れに味方した。
 現代アートが投機的「商品」としてはあまりに不安定である事が明らかになった事情も、この流れを加速した。物があり余る豊かな社会では「製品」に対しても何らかの附加価値をつけなければならず、そのリクエストに対して、「商品」作りの方の仕事があまり忙しくないアーティスト達が見事に答えたという事情もある。アーティストは「製品」に附加されるブランドのひとつとして、物余りの社会の中で重宝された。
 もうひとつ忘れてならないのは、公共建築に対する風当たりである。必要もない巨大な公共建築の建設に対し、年々、自動的に多額の税金を投入するシステムへの批判は高まる一方である。その流れの中でパブリックアートの手頃な「大きさ」、後々のオペレーションコストを余り心配しないですむ手離れのよさが、歓迎されたという事情もある。意地悪な見方をすれば、投機的アート商品の大衆向けダウンサイジングが誰でも手に入れる事のできる「製品」であり、大規模な公共建築をダウンサイズしたものが、パブリックアートであった。ノグチのオリジナルな意図を離れて、アートはそのような形で20世紀後半以降の成熟化した社会に受容されていったわけである。
 しかし、このムーブメントも、今や一循した感がある。アーティストというブランドは今や珍しくもなくなり、パブリックアートへの税金の投入に対しても人々の目は厳しい。もはや、アメリカ流の「自由」というシステムを受け入れるしか、われわれに残された途はないのだろうか。そんなペシミスティックな想いもあって、建築設計家を対象とする国際コンペに「わがまちのランドマーク」という題を出してみた。宇部の現代日本彫刻展ももちろんエキサイティングなイベントだが、彫刻というフレームワークをもう少し外にひろげ、ランドマークというフレームの中でどんな提案が出てくるかを見てみたかったのである。ある意味では時代錯誤ともいえるタイトルである。「この公的なものへのアレルギーが強い時代に今さらランドマークなんて……」といわれるのはもちろん承知である。しかしそんな時代だからこそ、その時代にフィットするランドマークのアイデアを世界から集めてみたかったのである。
 結果は想像をはるかに上廻る1000案を超すアイデアが世界から寄せられた。一見すると案は多様であったが、しばらくすると、ほぼ二つの明確な方向性が見えてきた。ほとんどの案はそのどちらかに分類する事ができた。
 ひとつは、ランドマークの不変性を主張する案。よくいえば不変性の主張であるが、悪くいえば不変性の主張にとどまっている案ともいえる。最も多かったのは、「ケータイが作る見えないネットワークこそが今日のランドマークである」というたぐいの主張である。最今の建築のアイデアコンペにおいても、実はこの傾向の提案が約半分を占める。たとえば「未来の図書館」という題を出すと、「ケータイのネットワークこそが未来の図書館です」とか「各家庭の本棚をネットワークしたものこそが未来の図書館です」という答えが返ってくるのである。大きな公共図書館に対する嫌悪感はよくわかる。しかし、ケータイのネットワークが図書館ですというたぐいの認識は、すでに今日では常識の範疇であって、聞き飽きた感すらあり、まずこの手の提案がコンペの上位に入賞する事はほとんどない。
 もうひとつの方向性は、そこからもう一歩踏み込んで今の時代にみあったランドマークのあり方を、手さぐりで捜そうとする案である。なにしろ今日の時代にふさわしい「公共性」とは何かという、政治家でも文学者でも簡単には答えが出せないような問に答えるわけだから、やさしいわけがない。しかし、なかに、こちらがびっくりするような新鮮で、しかも共感できるランドマークの提案を発見する事ができた。
 ひとつはチェコのユダヤ人ゲットーの跡に提案された、「孔」である。殺されたユダヤ人の人数が「孔」の大きさ、深さに変換されて、町のそこかしこの地面に孔がほられるのである。通常のランドマークは凸、すなわち独立したオブジェクトという形をとる。しかし、この提案は逆に、凹なのである。凸型のオブジェクトが、なぜ人に嫌われるのか。それは、目ざわりでもあり、物質の浪費のように感じられるからである。凹型には、そんな反感を微妙にそらした新しい「凹型の公共性」「雌型の公共性」とでも呼べるものの萌芽が感じられた。
 もうひとつ目をひいたのは、パレスチナの紛争地に提案されたロッククライミング用の壁である。もし、これが単なる高い壁のオブジェクトだったならば、そこにいかなる歴史的いきさつがあろうとも、いかに悲劇のにおいがそのデザインにこめられていようともこの凸型の構築物が共感を獲得できるかは微妙である。しかし、ここに提案されているのは、あっけらかんとするほど楽しげなロッククライミングの練習用の壁なのである。それを乗り越えて、その向こう側に隠されたものをのぞくというアクションは、楽しく、健康的でありながら、同時に歴史の奥の構造をつきつけるだけの深さを有する行動である。アーティストは壁というオブジェクトをデザインしたのではなく、アクションそのものを、見事にデザインしている。
 この二つの案は僕に少し勇気を与えてくれた。もし、パブリックなものの提案が人々から反感しか獲得しえないとするならば、アーティストや建築家ほどさみしい職業はないかもしれない。自由な「個人」のためにみばえのいい「商品」を作ってそれで満足していればいいといわれて、満足できる建築家やアーティストがどれだけいるだろうか。
 アートも建築も、かつては人々を結びつける機能をはたしていた。ケータイよりももっと強く、やさしく、人々を結びつけていた。ケータイがすべてのランドマークを徹底的に無効化した今だからこそ、われわれは新しい「公共性」をデザインできる場所に立っているのである。

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