現代日本彫刻展の課題(2007-図録)
中原 佑介
歴史的人物の銅像が典型といっていいと思いますが、野外に設置される彫刻は記念碑性(モニュメンタリティ)が特徴とされてきました。モニュメントとしての彫刻です。
しかし今日、野外彫刻のモニュメンタリティは不要のものとされ、その造形性が基本であるとする考え方が支配的となりました。私もまたそういう考え方に組みして野外彫刻を考えてきました。
しかし、モニュメンタリティの放棄はいいのですが、野外彫刻はもうひとつの重要な特徴を失うことになりました。それは、作品をどこに設置するかということです。たとえば、有名な東京の上野公園に設置されている西郷隆盛の銅像は、皇居の東北のあの位置に置かれる理由がありました。どこでもいいというのではなかった。
それほど厳密ではないにしろ、モニュメントとしての彫刻には、それが設置されている場所にはそれなりの理由がつけられていました。しかし、モニュメンタリティを捨てた現代の野外彫刻は、そういう設置場所の理由もまた失ってしまったわけです。
私はこの文章の標題に「現代日本彫刻展の課題」と、大学のレポート風のおおげさなタイトルをつけましたが、しかし、おおげさでなく「現代日本彫刻展」は大きな課題に直面していると思います。それは、ほかならぬ彫刻をどこに設置するかという問題です。
周知のように、この「現代日本彫刻展」は二段階方式で実行されてきました。今は終りましたが、神戸市でおこなわれていた野外彫刻展も同じシステムを採用していました。
二段階方式とはなにか。第一段階は、ひとつの場所に作品を集めて展示する。これが「現代日本彫刻展」という名称をもっている根拠です。そして、作品はその後、宇部市のあちこちに設置されます。これが第二段階。私を含めた選考委員は、この第一段階で授賞作品を選ぶというシステムになっています。
こういう二段階方式、それはそれでいいともいえるのですが、今回、それがひとつの「課題」として浮上することになりました。というのも、宇部市の市内に設置するには作品の大きさに制限をつけざるを得ないというので、これまでよりもスケールを小さく規制したからです。
私はこの規制に反対する理由をもっていません。当然のことだと思います。何故なら、そもそも宇部市の主催するこの彫刻についての企画は、市内に彫刻を設置して、市の環境を美化するというのをモチーフとしていたからです。
しかし、この「現代日本彫刻展」は、野外彫刻のコンクール展ということが特徴というので注目されてきたと思います。そういう特徴で半世紀にわたる活動が注目されてきたといっていい。つまりその第一段階がクローズアップされてきたわけです。しかし、本命は第二段階の市内のあちこちに設置される彫刻ということにはほかなりません。
第一段階の野外彫刻展としての会場は常盤公園です。この会場はそこに展示される彫刻作品の大きさに、理屈をいえば制限をあたえる理由はありません。公園の広さと、そこに並べられる彫刻の点数との関係から、おのずと大きさの制限が生まれるということができます。
しかし、この大きさの制限は、そのまま市内に設置される場合の大きさの制限と一致することにはならない。というのも彫刻の設置される市内の場所は、あらかじめ彫刻を設置することを考慮して計画されてはいないからです。つまり、既存の空間に彫刻をあてはめるというのが、市内に設置する際の手続きにほかなりません。
私はこれまで彫刻作品の大きさのことばかりに触れてきましたが、しかし、新たに決められた大きさの制限は、作品の形態に影響をあたえることも避けられないと思います。事実、今回のマケットを見ると、いわゆる古典的な意味での「彫刻」が大半であるのが、それを物語っています。概して、「彫刻」的作品はマケットで目立つものです。
これまでこの彫刻展では、「環境的」(これも曖昧なことばですが)な作品を見ることができました。「環境的」な作品とは、量塊性が強くなく、空間性の強い作品を指します。それが今回、激減したように思います。つまり、第二段階による大きさの制限が、第一段階の作品の形態にも影響をあたえたということです。もっとも、こういういいかたはおかしいかもしれません。というのも、第一段階の作品と第二段階の作品は当然同一のものだからです。
いずれにせよ、「現代日本彫刻展」は、都市のなかに設置される彫刻ということを、作品選定の基準として重視しなければならないという「課題」をになうことになったわけです。作品はどういう場所、どういう環境の空間に置かれるのか。作品の設置場所があらかじめ予定され、そのデータを考慮して作品を選考するという手続きが必要になるのではないか。
これまでも、都市に設置される野外彫刻については、作品は設置される場所とどのような関係を結ぶべきかという問題がしばしば論じられてきました。実際、彫刻は設置される場所によって、それがあたえる印象は変わります。
たとえば、建物に囲まれているような場所と、河に面した場所とでは、作品の印象が異なることは容易に想像できるだろうと思います。場所を超越した彫刻は存在し得ません。
かなり以前のことになりますが、鉄彫刻の仕事で来日したスイスのティンゲリーとアメリカのスネルスンが、彫刻と場所の問題について対談したことがありました。ティンゲリーは作品の制作にあたっては設置場所を考えるというのに対し、スネルスンは場所のことはまったく考えないという対比が印象的でした。しかし、どういう作品であれ、彫刻は特定の場所に設置されるわけです。一番望ましいのは、作家自らが設置場所を予想し、作品を発想するというやりかたでしょう。
これは課題とは関係のないことですが、今回の彫刻展では、アメリカ、ドイツ、ポーランド、コスタリカなど海外の作家の作品が6点えらばれました。海外の作品が増えるという現象は歓迎です。それは現代彫刻の多様性をよりはっきりと見せることになるからにほかなりません。
もっとも、海外の作家の場合、宇部市の都市環境についての知識をもつことが困難であるというハンディキャップがうまれるかもしれません。さきほど触れたティンゲリーとスネルスンの対談を引き合いにだせば、スネルスン型の作家にならざるを得ないというわけです。
彫刻とその設置場所という問題について長々とのべてきましたが、それはことあたらしい問題ではありません。しかし、この問題を今回の「現代日本彫刻展」は改めて考えさせました。その引き金になったのが大きさの制限の変更という一事でした。
大きさの変更が作品のあたえる印象を弱めるというのでは身も蓋もありません。むしろ、それが都市空間における野外彫刻の可能性を触発し、開拓することを期待するばかりです。