彫刻―人間と物質のあいだに 「UBEビエンナーレ」と中原佑介先生(2011-図録)
南嶌 宏
「UBEビエンナーレ」(現代日本彫刻展)の50周年を直前に届いた、長年にわたってこの彫刻展に尽力されてきた中原佑介先生のご逝去の知らせは、お亡くなりになる本年3月3日の直後、3月11日に襲った未曾有の「東日本大震災」、未だ解決不可能な状態に現代の知性と感性を翻弄し続けるその悪夢とともに、芸術に関わる私たちに重い課題を投げかけているといわざるを得ません。
というのは、京都大学で湯川秀樹の研究室において理論物理学を専攻した中原先生が、その対極にあるといってもいい、もっとも脆弱にして繊細なる美術批評という地平に立って、人間の意味を問い続けることになる背景に、ヒロシマ、ナガサキに象徴される物理学的実験が招いた廃墟の再生を可能にする、中原先生の直感的な芸術の力への希望を読み取ることができるからにほかなりません。
しかし、悲しくも福島第一原発から流れ出る放射線物質、現代の繁栄の根拠であったはずの原子反応の勝利が、音もなく再びの廃墟を生み出しつつある現在、いわば繰り返される物質としての廃墟に立つ、デジャブのようなこの経験を、芸術はどう克服し得るのかという問いを、中原先生の死と今回の大震災が同質のものとして迫ってくるように思われてならないのです。
「廃墟」。「UBEビエンナーレ」は廃墟の克服から生まれた彫刻展でした。戦禍によって零度の荒野と化した宇部市の市民が、物質的復興ではなく、緑化、花いっぱい運動という素朴にして、生きる希望の精一杯の表現として種を播いた営みが、「自然と人間の接点としての芸術」という市民提言を生み、それが1961年の「宇部野外彫刻展」、63年の「全国彫刻コンクール応募展」、そして、65年、現在の「UBEビエンナーレ」の原型となる「現代日本彫刻展」を作り出したことは、よく知られるところです。そして、この彫刻展がいわゆる美術や彫刻の、単なる野外展示という文脈から生まれたものでないという事実を認識するとき、再びの廃墟に立つ私たちに担わされている使命が、より鮮明に浮かび上がってきます。
確かに「UBEビエンナーレ」が戦後彫刻の教科書ともいえる歴史を築いてきました。これは紛れもない事実です。都市に抽象彫刻を調和させ、また「パブリック・アート」という概念を定着させ、あるいは建築家やデザイナーたちをも彫刻の世界に引き寄せながら、彫刻そのものに内在する社会性の表現の可能性を拡大させることに、多大な功績を刻み続けてきたからです。
しかし、その濫觴の哲学、否、宇部市民の切実なる生を希求する思いというべきでしょうか。その境地にこの50年に及ぶ「UBEビエンナーレ」の命を湛えてきた根拠を想うとき、それが狭義の彫刻史に収斂されない、また、させてはならない地平から照射される、魂の場としての彫刻的世界であったことを、思い出さなければならないのではないでしょうか。
奇しくも、既存の美術批評に対するアンチテーゼともいうべき、「創造のための批評」で美術評論家としてデヴューした中原先生の批評的イデオロギーが、その後、形として姿を現すことになったもの。それが1970年の「東京ビエンナーレ」でした。GNP世界第2位に躍進し、驚異的な経済的高度成長を遂げる中、戦後の復興とその完成を象徴する大阪万国博覧会が開催されたこの年に、反万博運動ともおそらくどこかで連動していたに違いない、「人間と物質」をタイトルに掲げた、我が国で初めての本格的な国際美術展において、中原先生は国際同時性を証明するかのように、若きアルテ・ポーヴェラ、コンセプチュアルアート、ミニマルアート、そして、その後、「もの派」の名のもとで歴史化されていく一群のアーティストたちの、「臨場主義」的な視点においても、先駆的なプレゼンテーションを果たすことになりました。
しかし、当時の酷評とは異なり、時代を経て、評価の高まるこの国際美術展に関して、中原先生が終生悔やまれていたことは、「人間と物質」と変更されたタイトルが、実は「人間と物質のあいだ」というものであり、そのひらがなによって表記された「あいだ」という、ある種の距離と空間を羽ばたかせる、理性的な闇に対する批評的言及が、ついぞ与えられなかったというものでした。
再び、中原先生の「臨場主義」、そして「あいだ」という言葉にこだわるならば、それは生の一回性にも繋がる、命と芸術的行為をつなぐ距離と空間の多感な感覚を、「切りはなすことのできない関係をもっていることの自覚」とする覚醒の意識にほかならず、そして、それはまた、同時代の人間に内包された苦悩に対する、深い内省の態度の表れであったと言わねばならないものだったのです。
時はパリの5月革命に端を発する抵抗の時代。それは物質的な知性や感性に対する反乱の季節であり、特権的な結晶として物質化しない、あえていうならば反権力的な抵抗のベクトルに、知性と感性を帰還させようとするその行為は、まさに非物質的な「彫刻展」といっても過言ではなかった「東京ビエンナーレ」において、その後の中原先生の彫刻観を決定的にするものでもありました。そして、それはとりわけ『ナンセンスの美学』、『見ることの神話』、あるいは『ブランクーシ』といった著作においても披歴される、卑しく沈殿しない、新鮮な中原先生の世界経験の感性として、今もなお生き続けるものであるといえるでしょう。
ならば、中原先生が1977年からすでに30余年関わられてきた、今日の「UBEビエンナーレ」において、私たちが再び復興しなければならないこととは一体何なのでしょうか。
危機にこそ「彫刻」は求められています。私たちは再びの、不意なる復讐でもあるかのように「東日本大震災」に直面し、芸術の可能性を問われているのではなく、実はつねにこの解決不可能な精神の廃墟に立ち続ける自覚において、「人間」と「物質」の「あいだ」を繋ぐ魂に、いかなる形象を与え得ることができるかを、何よりも問われ続ける存在であることを覚醒しなければなりません。
見えない悪魔である放射線物質を解毒し、排除するために、あの日、宇部市で播かれた花々の種のように、福島を中心に東北各地でヒマワリや菜の花の種が播かれ、その健気な花がその命と引き換えに、人間に希望を与え続けています。
今、「彫刻」はその自らの命と引き換えに、私たちに希望を与えているでしょうか。永遠普遍の物質性をしてではなく、一回性の、無為の形象としての「彫刻」の臨場として、「UBEビエンナーレ」が可憐な花を咲かせ続けるために、私たちは彫刻本来の力を回復するための闘争を開始しなければならないのです。そして、それは廃墟に立つ勇気ある者にこそ与えられる感性をして、開示される世界の創造にほかなりません。