UBE BIENNALE

第24回 UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)に寄せて(2011-図録)

酒井 忠康

A 今日は、あなたと半世紀の歴史をもつこのUBEビエンナーレについて話をしたいのでやってきました。
B もうそんなに経つのか。「現代日本彫刻展」といっていたよね。
A 前回から替わりました。海外からの応募者もあるということで。
B こんなにつづいているというのは、ギネスブックものだろう。
A まあ、そうでしょうね。ヴィネツィア・ビエンナーレ(1895年)やサンパウロ・ビエンナーレ(1951年)、あるいはドイツでのカッセルのドクメンタ(1955年)などが挙げられますが、彫刻に限定したものとしては、UBEビエンナーレの他に、これほど長い歴史をもつものはないと思います。毛色のかわったものとしては、ドイツのミュンスター市で開催される「ミュンスター彫刻プロジェクト」というのがありますが、これは始まったのが1977年で10年に一度の開催になっています。
B ミュンスターはとくに第二次世界大戦で壊滅的なダメージを受けたところだから復興の意図もあったようだが、成り立ちからけっこうラジカルだったのではないか。60年代に市がヘンリー・ムーアの野外彫刻の寄贈を拒否して、そこから公共性と芸術、つまりパブリックとアートをめぐる議論が起きて、そこから発展していったと聞いている。
A 現代美術の作家を招いて市内の公共空間に作品を発表させますが、教会をつかったあるアーティストが(教会の希望で)漆喰の壁をはがして内部の構造がみえるところまで削り取ったとか、教会の前に設置したカタリーナ・フリッチュの≪黄金のマリア≫が反対派にハンマーか何かで壊されたというように、物騒な話題にもことかかない。というだけではなく、いろんな市の施設や空間をつかったプロジェクトなのですが、感心するのは、場所の記憶を徹底して掘り下げ、政治的に過ぎると思われる主題もありますが、アーティストは問題意識を鮮明に打ち出しています。
B 日本からは川俣正氏が参加していたね。以前にミュンスターのこのプロジェクトのことを、写真家の安斉重男氏に聞いたことがあったよ。雑誌の取材中に≪黄金のマリア≫の件を事務所で訪ねたら「ハンマーぐらいのことで壊れたりしないものにつくりかえている」という返事だったので、「呆れたよ」といっていた(『現代美術トーク』安斉重男+篠田達美対談集、美術出版社、1993年)。
A このあいだ北九州市立美術館と宇部市のときわミュージアムの共同企画で「野外彫刻半世紀展50―まちにうるおいを求めて」を開催して巡回し終わったばかりです。これまでにかかわりをもった懐かしい作品がたくさんありましたが、一口に彫刻といってもさまざまですね。戦後日本の現代彫刻がどんな風に展開し変貌をかさねてきたのかを考えさせられました。
B 彫刻というのは(ある意味で)記憶の装置だから出会いの場というのは大事な要素にもなる。恒久的な作品の場合は、形の上からは大差がないといえるけれども、時の変化は受けるし、鑑賞する側だっていつも同じというわけではない。ぼくも忘れられない作品はいくつもある。江口週氏の≪砂上櫓≫とか篠田守男氏の≪テンションとコンプレッション≫などには、個人的な思いがかさなって一文を草したことがあった。ちょうど彫刻についてのエッセーを盛んに書き始めた頃の出会いだったからね。こんど修復された向井良吉氏の≪蟻の城≫などは、公園(会場)を訪ねるたびに思うのだが、このビエンナーレの守護神のような印象をもつ。アートというのは現在をつくるものだが、同時に未来を生きようとするところを示すものでもあるといった感じがする。不思議な力をそこにみる。しばしば昨日の知識と感性だけではとても理解できないような作品が展示(設置)されるが、「これは何を表現しているのでしょうか」という制作の意図(動機)みたいなことを訊ねられるときが、いちばん困るだろう。
A 具体的な対象、たとえば人体とか馬とか鳩などというように明示されていればともかく、厄介といえば厄介ですね。
B デザイン的な性格のものだって、説明するとなると、これは四角形です、あちらは円錐形です―だけではしようがない。重量感がある、建築性がみてとれる、といったところで、それは外形的な印象だろう。一歩進んで作品の仕組みや、造形にいたる素材の選択や工法の工夫などについても説明できるが、問題は、その根底にある制作の意図なのだよ。
A パブリック・アートはとくに環境の変化に関連しますから、アーティストも新しい素材の開発や技術の進歩に敏感に反応しますね。
B 環境の変化ということでは、どうしたってこんどの東日本大震災が脳裏に走るから、こうした震災(原発も含めて)のことを知ってしまった場で、彫刻について考えるというのは、関連する問題として、都市や建築を含めた生活環境の見直しを図るのは当然だが、同時に自然環境のことにまで拡大してみないといけない。存外、そのほうは忘れられているような気がする。もっと優先してしかるべき問題だよ。
A 地球規模の発想ということでしょうか。
B まぁ、そうかもしれないが、もっと切実な観点に立っていえば、このUBEビエンナーレも何か「新しい社会の形」を想像させるようなことになっていかないと、本当の意味でリアリティーをもてなくなってきていると思うのだが、どうだろう。
A その通りですね。そこでちょっと振り返ってみたいと思って、これまでのビエンナーレのカタログを数冊持ってきました。第5回は「形と色」(1973年)、第6回(1975年)は「彫刻のモニュマン性」、そのあと「現代彫刻の抽象と具象と」、「彫刻のなかのポエジー」などというようにテーマをかかげています。これは彫刻についての基本的要素を知ってもらいたいという意図だったのでしょうね。そのあとは「緑の町の彫刻」とか「風土と彫刻」あるいは「光と大地」といったように「彫刻まちづくり」と関連するテーマへと移っています。ところが、ある時期からは「翔(はばたく)」とか「響(ひびく)」とか(あってもなくてもいいような)抽象的なテーマがつづいています。これもまた、このビエンナーレの継続のための工夫のひとつだったのでしょうね。ところで、あなたが実際にビエンナーレとかかわりをもつようになったのはいつからですか。
B 第15回(1993年)からではないかな。確か西雅秋氏が巨大な鉄を埋めてしまい、それを掘り起こした作品が大賞になったときだ。
A ≪池溝≫ですね。
B 弟さんが亡くなったので、また事務局の仕事を相原幸彦氏(この人は詩人でもあった)が託され、こまった顔して≪池溝≫について訊かれたのをおぼえているよ。まあ、何とか上手い理屈をこねたのでしょうね、きっとぼくは。
A 近年では、「サイト・スペシフィック・アート」といういい方をしますが、ひと頃「アース・ワーク」とか「ランド・アート」といわれて、土地を造形したり土地に仕掛けたりする「アート」が注目されたことがありました。砂漠に半マイルもの平行線を引いたり、穴を掘ったり、何らかの痕跡を残したり――というような試みとどこかで繋がっているのかもしれませんね。
B 「野外彫刻」とか「パブリック・アート」の変わり目の時期とも考えられる。呼称というのは妙なものでいったん流布すると、それ自体が意味をはらんでしまって、なかなか概念規定がむずかしくなる。もともと「野外彫刻」という彫刻があったわけではない。野外の場つまり公共的な空間に設置された彫刻というほどの形容だった。「パブリック・アート」だって同じ。そんな「アート」があったわけではない。
A それは場所=スペースとのむすびつきなのでしょうね。
B ちょっと逆説的な言い方になるが、彫刻を設置することによって、場所=スペースの公共性という認識が生まれてくるのであって、公共的な空間がはじめに用意されて、そこに彫刻を置くから「パブリック・アート」なのではない。ここのところの相関関係がスムーズに機能しなくなってきたから、それではというわけで彫刻が場所=スペースをつくってしまい、作品それ自体が環境的な性格を持つものに変わってきた。ダニ・カラヴァンなんかは、その典型だ。
A 第21回(2005年)のカタログでも(イサム・ノグチを例にあげていますが)、隅研吾氏が「『公共』の可能性」を論じています。凸型ではなく、凹型の「公共性」というような見方の転換や、自身も建築家としてかかわってきた、この「公共性」について、ただ反省で終わるのではなく、新しい時代の「公共性」についての見方や考え方を求めている姿勢というのでしょうか、そのところがとても刺激的で傾聴にあたいすると思いました。
B それは創造的な模索なのだよ。ミヒャエル・エンデはヨーゼフ・ボイスとの対談で、創造の場では「因果の鎖」に縛られてはいけない――といっていた(『芸術と政治をめぐる対話』丘沢静也訳、岩波書店、1992年)。
A 「パブリック」と「アート」との関係は、これからもいろんなレベルで論じられると思いますが、今日はこれくらいで――。最後にひとつだけ報告しておきたいことがあります。この3月に山口宇部空港をちょっと出たところの広場に、UBEビエンナーレで展示された作品のなかから10点ですが設置されました。いずれまた感想をお聞きしたいですね。

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