UBE BIENNALE

第25回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)に寄せて(2013-図録)

酒井 忠康

A 第24回展のテキストでは、あなたにUBEビエンナーレのこれまでの概要とパブリック・アートの話をしてもらいました。今日は、あなた自身の個人的な思い出などをまじえて話してください。
B 思い出となれば、やはり初期の頃に関連する。江口週(1965)、岸田克二(1967)、村岡三郎(1969)などの大賞受賞の知らせを美術関係者たちと一緒に聞いたのを憶えている。いずれも秋山画廊(神田)にいたときで、歓声をあげたものだよ。彫刻家の個展が多い画廊で、そこのスタッフに私の先輩の柳生不二雄という人がいたので、勤め帰りによくその画廊に寄って油を売っていた。だからコンクールの結果を一喜一憂して聞くことになったのだろうと思う。

A そのころの宇部は「全国区」の感じがしますね。
B まあ、ほかになかったからだろうが、何か“熱いもの”があったね。

A ほかに思い出す彫刻家というと、どんな人がいますか。
B そうだな、私が神奈川県立近代美術館に勤めたのが、1964年のことなので、土方定一館長とのかかわりで知ることになった作家が多い。宇部との関係では柳原義達さんや向井良吉さんが、しばしば土方さんのところへ顔を出していたし、建築家の大高正人さんにもときどき電話を入れた憶えがある。まあ、この人たちは宇部の草創期の主要メンバーであった。ほかでは辻晉堂、清水久兵衛、飯田義國、保田春彦、土谷武、高橋清、澄川喜一、井上武吉、若林奮、山本正道などの作家たちは美術館に作品があったし、レセプションや個展の会場で会い、個人的にも親しくなった(辻さんは残念だが面識がない)。

A あなたの「戦後の現代彫刻」(『原色日本の美術33<現代の美術>』小学館、1994)という文には、具象では佐藤忠良と柳原義達、抽象では堀内正和と向井良吉の作品をあげていますね。
B ほかにも作家はいるけれども判り易い例を示したわけだ。

A 向井良吉の≪蟻の城≫シリーズを評して、「作家の戦争体験の記憶と不可分なもの―」で「時代の心理を鋭く照射した不安と危機の感情が凍結されている」と書いてありましたね。
B そうかね。頭の体操を要する堀内さんの幾何学的な抽象彫刻とは対照的に思えたし、仕事の方法も二人はまったくちがう。堀内さんはいわゆる「発注芸術」のハシリであった。向井さんはアルミ合金を鋳型の流す独自の方法だった。そのために向井さんは体をこわして長く制作を中断していた時期がある。

A こんど「向井良吉追悼展」がビエンナーレに併せて開催されますが、宇部にもっともかかわりの深い作家の一人ということなのでしょうね。ときわ公園の≪蟻の城≫(1962)は、鉄工所から提供された鉄クズを使って、現地で制作され、当時、野外では日本最大級の抽象彫刻として注目されたといわれています。このビエンナーレのシンボル彫刻として半世紀のあいだ親しまれてきましたが、戦後の日本の彫刻について言及する際には、向井良吉は無視できませんよね。
B その通りだ。とにかく彫刻は素材と表現方法の模索から抽象彫刻が大きく展開して行く傾向にあった。

A 建畠覚三、毛利武士郎、木村賢太郎、山口牧生、山口勝弘―などの作家38人が「集団現代彫刻」(1960)が組織されて参加しているし、また「彫刻の新世代」展(「東京国立近代美術館」1963)にも次世代の作家を含め18人が出品しています。こうして戦後の現代彫刻が活気づいて、宇部で1963年に「全国彫刻コンクール応募展」が開催され(大賞は志水晴れ児)、その後、同展は1965年から「現代日本彫刻展」として隔年の開催となります。つづいて1968年に米軍から返還された神戸市須磨離宮公園で「現代彫刻展」がスタートし、この二つの彫刻展はビエンナーレ形式で交互に開催され、神戸のほうが阪神淡路大震災の影響で中止されるまでつづきました。
B 神奈川県立近代美術館でも「集団58野外彫刻展」(1957)や「集団60野外彫刻展」(1960)などを企画し、盛んに野外での展示を促していたので、多くの彫刻家が刺激を受けたと聞いている。私の勤める前のことだから見ることはなかったが、「イサム・ノグチ展」(1952)や「円空上人彫刻展」(1960)なども開催されている。こういう企画は土方さんの批評の一環なんだろうね。50年代にヨーロッパ各地の美術館や美術展を視察してまわった体験から多くの文章を書いているが(『土方定一著作集』全13巻、平凡社、1976~77)、そのなかに「野外彫刻展の方向」と題した記事(「朝日新聞」1958・1・27)があって、こう書いている。「野外彫刻展が戦後の新しい現象となっているのは、野外で彫刻を愉しむということばかりではない。二十世紀の近代彫刻がアトリエのなかの実験に従っているうちに忘れていた彫刻の社会性を回復しようとしていることが、次に大切なことだ。これは建築家、彫刻家、画家が協働して、われわれの生活空間を合理的に美わしくしようということである」と。こうした彫刻についての関心が、土方さんを宇部の「現代日本彫刻展」につなげたのだと思う。

A 先見性を感じさせる意見ですね。
B 土方さんには、第二次大戦で破壊されたオランダのロッテルダムの都市計画につよく惹かれるものがあったようだ。ヘンリー・ムーア、ナウム・ガボ、オシップ・ザッキンなどの記念碑的な作品があるが、なかでも新しい百貨店の建築と一体化したガボの巨大な抽象構成の金属彫刻に魅了されて、いわゆる「彫刻まちづくり」のよき参考例の一つに数えていた。

A 宇部も空襲で市街地のほとんどを焼失しました。
B 復興計画は市民ぐるみで始まったと聞いているけど。

A 発端は緑化運動(「花いっぱい運動」)。当時の市長(星出寿雄)、公園緑化課長(山崎盛司)、図書館長(岩城次郎)、女性問題対策審議会長(上田芳江)などが中心になって進めたようです。
B この「緑と花の町」に「彫刻」を結びつけるときに、その役割の一端を担ったのが土方さんでしょう。

A 運営委員として向井・柳原・大高などの方々が協力し、彫刻の展示会場として、いまでも使っている常盤公園をブルドーザーで整備するところから始めたそうです。初期の頃、コンクールに応募した作品の搬入には、宇部興産のタンカーを使ったという話です。財政的にも人材的にも宇部市当局はもとより、こうした企業の援助や毎日新聞社の宣伝活動などもあって開催されてきたわけですが、半世紀以上も経ったのだからスゴイ!
B 箱根彫刻の森美術館(1969)の時期は、彫刻の造形性と野外の設置環境との関連が重要な視点だった。札幌芸術の森美術館(1986)や霧島アートの森(2000)などになると、いくつかの作品は自然環境との共生を示すようになって、彫刻のとらえかた自体も大きく変貌する。

A しかし宇部のばあいは、彫刻コンクールから「彫刻まちづくり」へと展開した。最近、話題の「大地の芸術祭」などのイヴェント性のつよい活動が、地域の活性化を御題目にしているのは、宇部とも共通するものがありますね。
B しかし、宇部のように市民運動が「彫刻まちづくり」を興して、これほど継続させている例は世界でも珍しい。

A 大事にしたいですね。振り返ってみると、いろいろ問題はあったと思いますが、長年積み上げてきた活動の歴史(文化的な財産といってもいい)を、これからどのように生かしてゆくか、そこが課題ですね。これからのUBEビエンナーレを考えるために―。
B やはり「緑と花と彫刻」を基本に置いて、そこから見直してみるということだろう。「彫刻」が“記憶の装置”としてはたらくのは、「緑と花」に関連をするからだ。しかし創造的な“場”への転換は、これはまた時間を要する難問だが、市民運動の原点を真摯に問い、共同作業を確認しながらすすめるほかに手立てはない。私はそんなふうに思っている。

A やっと調子が出てきた感じで、もっと話を聞きたかったのですが、このつぎにいたします。
B 最後に一言。今回は私の小さな記憶をたよりにしたせいで話が展開しなかったことをお詫びします。

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