UBE BIENNALE

彫刻的ということ(2015-図録)

水沢 勉

 野外に設置された「彫刻」。それはきわめて自明の存在であるように思える。
 しかし、「あの角に彫刻がありますから、それを目印にそこを曲がってください。」という会話は、まだ完全に日常的に万人に馴染んだものではないように思う。
 おそらく「彫刻」をいう言葉が含意する範囲が広すぎて、どんなものであるかをすぐに思い浮かべられないからだ。
 「そこに大きな赤い色の石の、背よりも高い彫刻があります。」「そこに裸の女性像があります。」「〇〇先生の銅像が立っています。」というようにある程度、具体的な説明を付さないとだれにもはっきりと分からないのだ。もし、分からないということをあえて符牒にするならば、「そこにオブジェ(★・・・・)があります。」という言い方になるのではなかろうか。得体の知れないものを「オブジェ」と呼ぶことがある程度まで日常化した功績は、おそらく近年の検定美術教科書の教育的な成果といってよいであろう。
 戦争の時代。あるいは、正確にはアジア太平洋戦争に向かう時代。
 その頃の公共彫刻は、むしろはっきりとその存在を主張していた。それは人物であれ、出来事であれ、なにものか記念すべきものを造形化したもの、まさしく「記念碑」にほかならなかったからである。「慰霊塔があります。」「忠魂碑があります。」そう聞けば、多くのひとにとってそれはかなり了解しやすい目印になったはずである。
 それとほぼ同じ程度に彫刻も見過ちようのない性格のものであった。たとえば、その記憶の一端は、上野公園の≪西郷隆盛像≫(高村光雲〈1852-1934〉が原型を木彫で制作したものを岡崎雪聲〈1854-1921〉がブロンズに鋳造し1898年に完成させた)を思い浮かべれば、少し了解できるのではなかろうか。校庭にあった(いまもある)二宮尊徳の少年像を思い出してもよい。
 それらが判然とした存在感を放っていたのは、それぞれの共同体に根ざしたものというよりも、上位下達の「大きな物語=イデオロギー」を背景とするものであったからだ。それは支配の刻印でもあるから分かりにくいことは一種の犯罪でもあった。コンスタンチン・ブランクーシ(1876-1957)がルーマニアのトゥグルジウにある公園に設置した《無限柱》(1939年)をヨシフ・スターリン(1878-1953)が目障りに思い、馬で引いて倒そうとしたが成功しなかったというエピソードは、分かりにくいと権力者から判断された場合、作品がいかに理不尽な不運に見舞われるかの典型的な事例であろう。
 簡明直截に「彫刻」であること。だれにも見紛いようのない存在であること。
 たとえば、ニューヨークの《自由の女神像》(1886年完成)には、成立の背景にフリーメーソンの人的なネットワークがあり、しかも、アイコンとしてもたんに旧来のものを準拠したものではない、いくらかは新しいものであったが、少なくともフランス人彫刻家フレデリック・オーギュスト・バルトルディ(1834-1904)のスタイルそのものはアカデミックな手堅いものであり、灯台としての機能が不全であることがやがて判明し、また、21世紀には、9.11以後、テロの標的となる懸念は表明されたものの、理解しがたいものとして撤去が要求されたことは一度もなかった。
 要するに「彫刻」として理解しやすい。つまり、だれにとっても誤解の余地のなくはっきりとした目印になる。しかも、多くの移民たちが入港するときに遠くから遠望できる「自由の国」というイデオロギーをも明確に伝達するものであったのだ。
 20世紀後半以降、すなわち第二次大戦以後、「彫刻」は大きく変貌した。むしろ、その本来の姿からいえば、反=彫刻まで含むような「彫刻」の概念の変容ないし拡大があり、もはや、「彫刻的」という輪郭の曖昧な表現でしか指示できないものになってしまったのだ。
 「その角に「彫刻的なもの」がありますから、そこを右に曲がってください。」わたしたちは、いま正確にはそういわなければならない。「ますます訳が分からない」という返事が返って来そうであるが…

 宇部市の野外彫刻運動のきっかけは、1958年、工業都市としての急激な発展を遂げつつあった半面、公害や非行の問題が深刻化したことを背景に、市内各所に花を植えようと提案する緑化運動を担った団体からの寄付金で18世紀フランスの彫刻家エティエンヌ=モーリス・ファルコネ(1716-1791)の《ゆあみする女》のレプリカが購入され、宇部新川駅前の噴水に設置されたことであった。
 このレプリカの原型は、現在パリのルーブル美術館に所蔵され、世界的にもっとも人気の高い裸婦像のひとつである。しかし、ルーブル美術館所蔵作品もまた作者自身によるレプリカである。1757年のサロン展に出品されて以来、だれにも好まれる彫像であり、現在もなお多くの石膏像のレプリカが制作されるという「歴史」は、すでに作者自身の手で開始されていたのである。かりに作者名は知らなくてもどこかで見たことのある彫刻と思うひとは少なくないと思われる。
 この18世紀フランスのロココ後期の典雅な小彫刻の設置が、戦後復興期の矛盾のさなかになった地方都市の公共空間を変質させることになるとは、そのときだれが予想したであろうか―今年(2015年)2月から3月に渋谷のヒカリエで開催された「UBEビエンナーレ@渋谷ヒカリエ」展の会場で宇部の人工石製の「レプリカ」をわたしははじめて観ることができた。かなり傷んでいる。しかし、それが「歴史」を雄弁に物語っていて、健気であり、その意味でとても魅力的であった。
 そして、1961年には、阿井正典、井上武吉、木村賢太郎、小谷謙、昆野恒、佐藤忠良、建畠覚造、田中栄作、戸津侃、中島快彦、舟越保武、向井良吉、毛利武士郎、森堯茂、柳原義達、レオン・ターナー16人の彫刻家による59点の作品によって「宇部市野外彫刻展」が宇部市の常盤公園を会場に開始される。これが1965年に「現代日本彫刻展」へと成長し、現在の第26回UBEビエンナーレにまで半世紀の歳月を隔てて連綿と続いていることは周知の事実に属する。
 が、しかし改めて戦前と比較するならば、ファルコネの「通俗性」を遥かに凌駕する現代彫刻家たちが一気に出現したことに驚きを禁じ得ない目覚ましい展開がそこに遂げられていたのである。

 今年(2015年)夏。神奈川県立近代美術館の葉山館の前庭に、若林奮(1936-2003)の彫刻《地表面の耐久性について》(1975年)が設置された。宇部の第6回現代日本彫刻展に発表されてからじつに40年ぶりの公開である。1967年の第2回展で《中に犬・飛び方》によって神奈川県立近代美術館賞を受賞した若林奮は、独自の鉄彫刻を探求し、若くして異彩を放っていた。そして、大地の表面や地下へと想念を集中させる大作《地表面の耐久性について》は、新しい素材や表現へと拡大変容を続ける野外彫刻のあり方への根源的な反省の表明でもあった。
 「彫刻的なもの」へと拡散するのではなく、「彫刻」の根源へと「彫刻的に」回帰する、といえばよいであろうか。
 かつてアメリカを代表するミニマリストのひとりカール・アンドレ(1935- )は、自由の女神像を例にあげて、彫刻は、まずなにが表現されているか、すなわち表現対象を問い、やがて、どうできているか、すなわち構造を問い、ついには、どこに設置されているか、すなわち場そのものを問うようになったと鮮やかに分析したことがある。
 21世紀に生きるわたしたちは、このアンドレの分析の背後に存在する進歩観を素朴に信じることはもはやできない。根源的な問いを総合的に発しなければならなくなっている。
 ファルコネの艶麗優美なロココも、自由の女神像の構造を担当したギュスターヴ・エッフェル(1832-1923)も、アンドレの素っ気なく幾何学的に床に置かれた正方形の銅板も、すべて知ったうえで、「彫刻的なもの」を積極的に提示しなければならない。
 戦後70年の節目にあたる第26回UBEビエンナーレは、「彫刻的なもの」についても、また感受し、思索を深めるための好機になって欲しい。(今回のさまざまなマケットのなかに地下空間を挑む提案があってわたしは心躍った)。一見、曖昧とも思える「彫刻的なもの」こそが、わたしたちの五感のすべてを刺激し、鋭敏にさせ、あるべき世界を予見させる可能性をまさしく実感できるものとして現実に表現し、世界のなかに切り拓くからである。
(2015年8月9日 長崎の原爆の日に)

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