UBE BIENNALE

第26回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)に寄せて(2015-図録)

酒井 忠康

A 今回は、アートによる地域再生についてお聞きしたいと思いますが、いかがですか。
B わたしはその筋のお役人ではないので、データも乏しいし、また整理のいい頭ではないから無理かもしれない。とくに法律や財政方面の話は苦手だ。

A まあ、そんなことをいわないでくださいよ。環境条例がどうの、あるいは都市計画法がどうの、といったような制度に関連する上から目線の話ではなく、あなたが関心を寄せたいくつかの事例について話してほしいと思っているのですから。
そのきっかけとして、この春に東京で開催された「UBEビエンナーレ@渋谷ヒカリエ―山口県宇部市、アートによる<人間/都市>再生への挑戦」(2月18日~3月1日)をとりあげてみたいと思います。詳細については「報告書」を参照してもらうとして、7000人弱の来場者の75%の人がUBEビエンナーレを知らなかったけれども、89%の人がUBEビエンナーレに行ってみたいと答えています。こうしたイヴェントそれ自体も、ある意味の地域再生につながっているのではないですか。
B そのとおり。事業はヤリ放しではなく、フォローが大切なのだ。

A UBEビエンナーレは、1961年から半世紀余にわたって展開されてきた国際的彫刻コンクールですが、そもそもは市民が、戦後、荒廃した街を緑化運動によって再生をはかろうとしたところに誕生したイヴェントです。「アートによる<人間/都市>再生への挑戦」と銘打っているのは、そのことを意味し、「アート」「人間」「都市」―そして、その関連というように、さまざまな側面をもっています。
B また時代の変化もそこに加味しなくてはいけない。
いずれにせよ行政というのは景気のいいときはともかく、不景気だというと、博打的イヴェントに走ったり(そして失敗)、また文化的な事業を切り捨てたりする。背に腹はかえられず、というのか、困ったことだね。長期的ヴィジョンとまでいわないが、じっくりと養い育てていくという算段(姿勢)に欠けている。「アート」「人間」「都市」に「自然」をくわえるといいのではないかな。「大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ」(2000年~)の例があるから。

A いきなり、結論になった感じですが、それはともかくとして、渋谷ヒカリエでのイヴェントをどう思いましたか。
B どう思うといったって、かなり複雑な思いでオープニングに出席したよ。挨拶をたのまれたからね。何を話したのかは思いださないが、「宇部よ、もっともっといい街になってくれよ!」と、念じるような気持ちで立っていた。

A 南嶌宏氏(選考委員)の企画によって、さまざまな関連イヴェントが組まれて、結構、中身のコイ、斬新な印象を多くの来場者にもたらしたのではないでしょうか。会期中のトーク・イヴェントの一つ「<彫刻女子>の力」(24日)には、久保田后子氏(宇部市長)も参画。青木野枝氏、津田裕子氏と熱心に語り合い、また「電子時代の<彫刻>教育の可能性」(28日)では、北郷悟氏、戸谷成雄氏、平戸貢児氏のそれぞれが、大学の現場で体験されたことを踏まえて、刺戟的な話をくりひろげたといいます。
B こうしたことの根もとにある「市民」の支援を受けた市長が、熱心に参画している姿をみて、とてもいいなと思ったね。と同時に、わたしはずいぶんまえの話になるが、この手のプロジェクトにはじめて関係した碧南市(愛知県)の「彫刻のあるまちづくり」(1983-1995年)や、瀬戸田町(広島県)の「瀬戸田ビエンナーレ、島ごと美術館」(1989-1999年)などを思い出していた。
いま瀬戸田町は尾道市に併合されているが、当時の町長であった和氣成祥氏が、ある日、訪ねてきて、こんな話をされたことがあった、「コロラド渓谷で、どでかいカーテンを吊るしたクリストとかいう人のプロジェクトをみたけど、わたしの島でも、あんなふうなことをやれんかね」と。「孤島会議」で軽井沢にいて、たまたま足を運んだ当地の美術館で、その映像をみたというのである。さらに話を聞くと、「芸術のことは、わしにはようわからんけど、失敗し、再度、挑戦して成功!かかわった連中が汗かいて、みんなで抱き合い、ワアワアやっている光景に感激した」と。その感激を島の人たちと分かち合いたいというのが、「瀬戸田ビエンナーレ、島ごと美術館」の発端になったのである。

A そうしたプロジェクト=地域再生には、賛否両論、いろんなかたちで住民の声を聞く機会があったのでしょうね。
B なければ、おかしいが、振り返ってここで一々説明するのはシンドイよ。

A そうでしょうね。このところの無表情な、シャッターを下ろしたままの地方の商店街をみると、どうして、こんな―と思いますね。ちょうどいい感じに息づいていた地方の暮らしの風景を、外来種が、大きな資本の牙で食い荒らしている、そんな印象をもって眺めることがあります。
B そういう状況には「アート」の盾が、案外、有効かなと思うのだが、どうだろう。やはり絵に描いた餅かね。

A その「アート」のことはちょっと措いて、『まちづくりと環境芸術セミナー’95』(彫刻の森美術館/環境芸術総合研究所、1995年)という冊子をもってきました。1986年から10数年にわたって「環境芸術大賞」の選考やセミナーなどの記録が収録されています。
そのなかで基盤整備(公共下水道など)にしても、「広い意味での公共問題への対応が必要とされ」、「地域住民の要望も非常に多様化」云々とあって、「専門家のアドバイスを受けながら、地域の住民が主体的に美しいまちづくりが何であるかを見出していき、それを公共団体が受け止め、実践していく、ということがまちづくりの基本であろうと思います」(当時、建設省都市局長、近藤茂夫氏の発言)と語られています。それを踏まえて、彦根市、椐野市、横浜市、倉敷市、伊達市、高岡市、知覧市、広島市―などの「地区の特性にふさわしい良好な環境形成」によった事例が紹介されています。宇部市の例は知りませんが、こうした整備事業が住民や街の全体といかなる関連をもつのか、あるいはその後の経過がどうなのか、といった点にはふれられていないです。基盤整備はしかたがないとしても、ちょっと目線が高いような気がします。
B そうかもしれないが、「芸術が都市をひらく―フランスの芸術と都市計画」展(1990年-91年、日本各地を巡回)の監修者モニク・フォー女史は、かつてこんふうなことを話していたのをおぼえている。それは地域の住民をまきこみ、自分の立場を利用する政治的な俗物たちとの闘いの連続でした―と。当時、女史はフランス文化省新都市中央グループ造形美術担当参事官だった。わたしとの対談集『モニク・フォーが語る』(空間造形コンサルタント、1999年)を遺して1997年に亡くなったが、女史は専門家の視点の重要性を強調していた。陳腐な権威づけなどではなく、だいじなのは創造力の問題である、と。またクリエ―ティヴな「アート」とのかかわりのなかに、変貌する「都市」の本来の姿を考えたい、と。

A あの展覧会には啓発されました。宇部市のばあいも「現代日本彫刻展」をかかえた「アートによる<人間/都市>再生への挑戦」ですからね。大いに期待できますね。
B それに「自然」を忘れてはこまる。いま問われているのは、新しい価値観の発見ではないか。

A 地域の経済的(財政的)な面を度外視にはできませんよね。
B それはわかるけど、きみはすぐそちら方面に話をふりたがる。飛躍したいいかたになるが、文化や芸術の領域でもITばかりが話題をさらっているが、一皮むくと、そこにみえるのは「野生」の境界線なのだという感性の恢復をのぞんでいる。

A 「野生」の問題は地球規模の話に展開します。このつぎにいたしましょう。

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