第28回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)に寄せて(2019-図録)
酒井 忠康
A 連日、暑い日が続いていますが、いかがですか。
B 暑いのも、寒いのも駄目だが、久しぶりに箱根彫刻の森美術館へ行ってきたよ。あの登山鉄道のスイッチバックで、季節はずれのアジサイを見ながら―。
A 何かあったのですか?
B 彫刻の森美術館の開設が1969年なので、今年はちょうど50周年。早いものだな。それを記念してピカソ館がリニューアル・オープンした。いろいろと催事が組まれ、「ピカソ クロストーク」(高階秀爾×横尾忠則)があるというので出かけたわけだが、連日、超満員の盛況らしく、その日も海外から客が多いのにおどろいた。彫刻の森美術館は、ぼくにとっては、久しく彫刻のことを考える、一種の「聖地」のような場所でもあったからね。
A あなたは札幌芸術の森(1986年)、そして鹿児島県霧島アートの森(2000年)の開設にもかかわった一人ですが、その後の様相などをふまえて、いまどんな印象をお持ちですか?
B 彫刻公園―といっても公園が健全なかたちで維持(運営)されているかどうかは、とても大事なことであるが、いずれもよくやっているように思うよ。財政事情については知らないが―いま、そのことを描いて、そこに設置された作品の印象をいうと、作家の意図が潜在的に生きている作品と、すでに時代の呼吸を止めてしまって、どちらかというと、形骸化してしまった作品とがある。また作品が設置されたときには、作家の意図が解りにくかったのだが、時の経過による変貌で生き生き見えてくるようになった作品もある。
A 例えば―箱根ではマルタ・パンの《浮かぶ彫刻3》、札幌のダニ・カラヴァンの《隠された庭への道》、あるいはアントニー・ゴームリーの《インサイダー》などは、設置場所との関係が鮮明で、いま見ても爽やかな空気が作品をつつみこんでいますね。現代の呼吸をしているという点で印象的な作品ではないですか。
B 確かにそうだ。もっと踏み込んで言うと、つまり時の経過による変貌という点ではどうかなあ-。
A いわゆる作品自体が、周囲の環境形成に関与するという意味での「サイト・スペシフィック・アート」(景観彫刻)の性格を持つ作品があります。札幌の環境造形Qの《北斗まんだら》や、霧島の若林奮の《4個の鉄に囲まれた優雅な樹々》などが、そうですよね。いずれも植栽によっていますが、人間の自然観や宇宙観をも問うというような試みが、作品自体のなかに秘められているような気がします。ずいぶん前のことですが、あなたから北ウェールズに住む彫刻家デイヴィッド・ナッシュが、完成まで25、6年もかかるという《とねりこのドーム》をつくっていた話を聞いたことがあります。
B 80年代はじめの頃のことだったなあ。過去のことを語るのは、やはり、自分も齢をとったと感じる。いっこうに思考が深まらないので―こういう時に新しい提案ができないのは残念だよ。箱根でヘンリー・ムーアの《横たわる像・アーチ状の足》を眺めて、ぼくは情けないことかもしれないが、この彫刻家の偉大さを再認識したよ。
A このところヘンリー・ムーアのことは、あまり話題に上がりませんね。しかし、あなたが「ムーアの彫刻があるというだけで、何ともくつろいだ気持ちになる―」と書いていたのを覚えています。
B それは理屈ではなく、また古い新しいといった問題でもない。ぼくの敬愛する画家は「原郷」と称していたが、懐かしさというのは、理屈じゃないからね。
A 彫刻というのは、本来、都市や建築あるいは用意されたパブリック・スペースに従属するものではなく、むしろ、その逆ではないか―というのが、あなたの意見でしたね。
B その通りだ。もともと彫刻および彫刻的な思索の運動や発想を土台にして、人間は成長してきたわけだろう。幼児が噛んだり触れたりして、それこそ感覚の土台となっている触覚を通じて、自分と外界との関係を学習していく能力を考えてみれば分ることだ。
A しかし、それが即ち人間の未来への展望を持つことにつながるものなのか、どうか―は分らないですよね。
B まあ、そうだが、箱根で再認識したのは、快い彫刻との対話というのは、人間の生命に活力をもたらし、生きる悦びにつながるということは間違いではない。まあ、かなり理想的な話だが―。
A とは言っても、あなたはダニ・カラヴァンの《隠された庭への道》についての解説のなかで、ある陶工の話として河井寛次郎の文章を引いていましたね。
B 『火の誓い』という昔に読んだ本だ。
A ―それは陶工がたまたま訪れた京都の、とある村落で目撃することになった光景に、まるで魔法にでもかけられたかのような陶酔の気分を味わったという話である。村と家、家と家との地形に応ずる巧みな配置などを眼にして、陶工はそこに「偉大な設計者」を想像する。そして何もかもが美しいと思う。農家のある景色の美しさというのは、農家の暮らしに依っているからで、けっして「こしらえたもの」ではない。それは農家が育てる仕事から出てくるのだ―と。
B 「こしらえたもの」と見えるあいだは、彫刻公園もまだまだ。「パブリック・アート」は、どうもこのあたりが妙に都会化して、急ぎ過ぎの感じがする。ローカル線の楽しみを忘れてしまっているよ。
A 現実的には、どんどん廃線となっているのに?(笑)
B そうした状況だからこそ地域の特性にこだわるのだよ。「国際芸術祭」の「国際―」という冠なんか変なものだよ。田圃の中のパチンコ屋さんみたいな感じがしないかね。
A 田舎の繁華街という感じですが、都市郊外の大型のコンビニとも似ていますね。商店街は壊滅的だというのに。
B こういう現状を眺めて、どう抵抗するか、また具体的な算段はあるのか―早急に決着のつく問題ではないけれども、ぼくは歴史的な経緯による風土的な変異や民情の積層なんかを照らし合わせて考えていけば、先はおのずから見えてくるような気がする。
A まだ〈案〉の段階のようですが、〈UBEビエンナーレのこれまでとこれから〉と題した「野外彫刻・アートによるまちづくり活性化プラン」を見ますと、公園全体の環境整備や活動全体の見直しまでふくめて、かなり良くできたプランになっています。あなたのところへも届いていると思いますが。
B 目を通した。過日、このプランの助言者である藤原徹平、日沼禎子の両氏が美術館にわたしを訪ねて、懇切な説明を聞いた。コツコツと活動の実績をつんでいるのが判ったし、何よりも多くの市民が、さまざまなイヴェントにも積極的に参加していて、とても頼もしく思えた。ぼくの記憶には第20回の記念シンポジウム「アートと出会うまちづくり」(2003.9.30~10.1)のことがあるけれども、そのときはまだ発信装置はあったけれども受信装置がまことに貧弱だった。そのへんの変化がよく判った。期待したいね。
A UBEビエンナーレの話をもう少ししたいのですが、話題を変えたい。砂澤ビッキの《四つの風》が倒れたという話をあなたの随想(「北海道新聞」2019.4.19)で知り、びっくりしました。
B あれは札幌芸術の森のシンボル彫刻の一つで大切な作品なのだが、木彫のために現状は、柱4本のうち3本が朽ち倒れたままである。記録にとどめて消滅を見届けることになっていいるが、ぼくは伊勢神宮の遷都にならって、何か再現の手立てはないか―と提案したことがあったが、賛意は得られなかった。
A 「パブリック・アート」の問題を考える、さまざまな要素が含まれていますね。このところ公共的な場所にあった彫刻や壁画などが撤去されたり、取り壊されたりで、ちょっと情けない思いをしていましたから。伊丹市庁舎前庭にあった環境造形Qの《白鳥の泉》も取り壊されたと聞いています。市民の憩いの場として親しまれていたのに。
B 建て替えのためなのだろう。重さ30トンの巨石であるが、噴水の魅力は抜群で、野外彫刻の傑作と言っても過言ではない。何とか移設できなかったものかと残念に思っている。
A さて、UBEビエンナーレのこれまでの経緯を踏まえて、毎回あなたと話をしてきましたが、今回を締めくくりとしたいので、言い忘れたことなどありますか。
B 第4回のことだから1971年。このときのビエンナーレには「素材と彫刻―強化プラスチックによる」というテーマが掲げられていた。この素材は火には弱いが水には強く、腐敗して朽ち果てることがない―と批判した彫刻家がいた。
A 堀内正和氏ですね。「美術公害」(「毎日新聞」1971.10.2)というコラム記事で「石やブロンズはもっと丈夫で長もちするから罪は一層重い」と書いています。
B すでに話したことだが、ぼくは第15回(1993年)からビエンナーレとかかわりを持つようになったが、そのときの大賞は西雅秋氏の《池溝》だった。地中に埋めて、それを掘り起こす―鉄が土を食っている、そんな印象を受けたが、作家は普段、こんなことを口にしていた。「世のなかにモノが溢れているのに、どうして、これ以上モノをつくる必要があるのだろうか。」と。
A そう言えば神奈川県立近代美術館もなくなったそうですね。
B いや、建物本体は鶴岡八幡宮にもどし、改修後「鎌倉文華館」としてオープンした。ホッとしているよ。
A 長く仕事をされたところでしょうからね。
B このあいだ鶴岡八幡宮の雪洞祭の提灯に、ぼくの好きな山頭火の句を墨で書いたのだが―。
A 「ふるさとの言葉のなかにすわる」というのでしょう。他に「秋風の石ころを拾ふ」もありましたが、いつまでたってもあなたは楽天的ですね。
B 先年来(ビエンナーレの審査の折に)、其中庵を覗いたり、防府の山頭火ふるさと館を訪ねたりしたせいかもしれない。ぼくは山頭火にぞっこんなんだが、こういうのって、どうしようもないんだよ。