UBE BIENNALE

宇部市と野外彫刻(2022-図録)

井田 勝己 彫刻家(第16回現代日本彫刻展大賞受賞作家)

 今回で60周年を迎えると聞き、そんなに時間が経ったのかと、少々驚いた。私が初めて宇部市に行ったのは、1995年第16回現代日本彫刻展の頃である。その時、宇部の街を歩きながら、やや異質な感じを受けた。道が広いのである。厳密に言えば歩道が広い。何か外国の街に来た様な感覚に襲われた。旧市街を一人で散歩しながら、この街の都市計画は凄いなと、素朴に思った。幅の広い道路が、直線で何本も平行に走っている。色々な困難を乗り越えた都市計画なのだろうなと思っていた。
 それから、しばらくたって、古本屋で「宇部大空襲」という本を発見し手に取り読み進めると、宇部市は太平洋戦争後期、米軍による工業地帯を中心とした徹底的な重爆撃にあっている事がわかった。奇しくも其の本は、1995年に発刊されたものであった。印象に残った部分は、当時宇部市議会議長の言葉であった。「最愛の家族、親しい友人を失い、焦土のなかに呆然と立ち尽くした人々は、壊滅的な状況にもめげずに、郷土再建に立ち上がり、今日の、緑と花の豊かな彫刻のある産業都市宇部を築き上げたのです。」この一文が、現在の「UBEビエンナーレ」の成り立ちや、整然とした都市計画の意味を語り尽くしていると感じ、胸が熱くなった。
 かつて彫刻家の故眞板雅文氏に連れられ若い彫刻家たち数名が、宇部の常盤公園の彫刻を観て回ったことがある。展覧会の初期、彫刻家向井良吉氏がブルドーザーで会場を整地されて居た姿を語られ、「宇部に来れば戦後の日本における野外彫刻の歴史がすべて解る。」と、語られていたことが印象深く記憶に残っている。
 当時私は、作品制作の合間に何年かかけて戦後日本の野外彫刻年表を作成しており、眞板氏の言われることがよく理解できた。後年、偶然にも同じ内容で年表を作成しているある研究者に出会い、二人でお互いの資料をつき合わせながら、互いの欠落している部分などを補正しながらかなり精度の高い年表を作成できた。1950年の日本貿易産業博覧会~2006年第38回京都野外彫刻展まで、参加作家、題名、場所等調べられるものは、ほぼ網羅したと思う。因みに、宇部市関連でいえば1961年7月第1回宇部市野外彫刻展、1963年9月第1回全国彫刻コンクールがあるが、これらは1965年10月に開催される第1回現代日本彫刻展の為のプレ大会的要素が強いと思われる。しかし、2005・6年あたりから、私の年表作成は行き詰まり始めた。日本において野外彫刻の概念がかなり変化し始めていると感じたからである。現代は時代そのもののパラダイムが、ダイナミックに変わる過渡期なのかもしれないと折々に感じる時がある。其のことは、野外彫刻においても例外ではないと思う。私は其のことを否定するつもりもない。むしろ肯定的に受け取るべきとさえ思っている。野外に作品が置いてあるから、野外彫刻だと単純に判断できた、長閑で幸せな時代は、ある意味終わったのかもしれない。時代は大きく変わりつつある。「現代日本彫刻展」も「UBEビエンナーレ」と名前を変えたごとく、彫刻も時代とともに変わりつつある。
 しかしながら、時代が大きく変わろうとしている現代であるからこそ、一層に先人たちの思い、27年前の宇部市議会議長の言葉を思い起こし、郷土再建に立ち上がった人々と展覧
会草創期に関わった彫刻家、美術評論家や行政関係者、ボランティアの方々の情熱の延長線上に現在の「UBEビエンナーレ」があることを忘れてはならないと思うのである。
 他方これはいたって個人的なことであるが、1995年を含め1997年1999年の3回の展覧会に参加させていただいたことで、多くのことを学んだ。野外における彫刻のスケールのあり方や、彫刻空間認識の再定義についてなどがあげられる。又、故向井良吉氏の「蟻の城」の修復、監修に携われたことは、素材のあり方等について多くの発見があった。そして宇部
市での多くの方々との出会い、暖かな応援や励ましを戴いたことは、私を大きく成長させてくれた。宇部市での経験があったからこそ、制作活動を続けてこられたのではないかと、しみじみ思えてくるのである。

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