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新たな歩みを始めるUBEビエンナーレ

第25回UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)

著者 : 岸 桂子

 2013年、25回目(野外彫刻展としては通算27回目)となる山口県宇部市のUBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)は、新たな歩みを始めると言ってよい。
 発足50周年を祝った前回展の終了後、今後の事業のあり方を検討する「UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)を考える会」が設置された。市民らが討議を重ねた結果、「新たなスタート 世界一のUBEビエンナーレに」というスローガンのもと、継続・発展させることなどを提言としてまとめた。
 単なる前例踏襲、伝統を尊重するだけではなく、市民一人一人に愛されるUBEビエンナーレをつくる。そんな強い意志がうかがえる。新しい動向を紹介する前に、市民活動を中心としたこれまでの歴史を簡単に振り返っておこう。

 太平洋戦争末期の空襲で中心部が壊滅的被害を受けた宇部市は、幹線道路づくりを核とする都市計画を推進した。だが公害もひどくなっていく。1951年以降の街路樹整備を中心に、市民が主体となって、緑化運動や花いっぱい運動が展開された。

 50年代末、「さらに文化的な香りのある町づくりを目指そう」と、緑と花に野外彫刻を結びつける提案が生まれた。当時の宇部市長星出寿雄に協力したのが、美術評論家の土方定一。さらに建築家大高正人、彫刻家柳原義達、向井良吉の3氏も加わって本格的な協議が進んだ。61年夏、招待された彫刻家16人によって「宇部市野外彫刻展」が開催された。
 ここで、忘れてはならないのは、市民の行動力だ。展覧会に先駆け、「宇部を彫刻で飾る運動」が始まっている。93年に宇部市が発行した『宇部の彫刻』で、同市緑化運動推進委員会理事長だった上田芳江が、「行政を動かす市民運動」と題した寄稿で以下のように回想している。

 それぞれの立場で、応分の協力をしながら、理想の町に近づいて行くのが官民一体の町づくり、つまり宇部方式だとわたくしは言いたいのである。
 彫刻運動もその一つ。緑も花も育った。今度は彫刻で美的鑑賞眼を養う文化都市、など、大それた考えではじめたものではない。忙しい、忙しいと時間に追われて、うるおい(★・・・・)もゆとり(★・・・)も失ってしまった現代人に、ゆとりの場をつくってほしかったのである。
 上田は、宇部の歴史にも触れている。
 明治維新で山口県人が主要な役割を果たす中、旧領主が蛤御門の変の責任を問われたために宇部村民だけが活躍の道を絶たれてしまった事。それゆえに、相互扶助の大切さを身にしみて感じてきた事。そして戦後、石炭を基盤とした<炭坑の町>からの脱皮を余儀なくされた事……。緑や花、彫刻へと展開した市民運動は、常に切実さを抱えてきた。UBEビエンナーレの歴史は、町づくりの出発点と重なるのだ。何度読み返しても胸が熱くなるのを抑えられない。
 筆者がUBEビエンナーレにかかわるようになってからも、この設立経緯は、関係者から幾度となくうかがってきた。市の誇りであることが伝わってきた。
 だが一方、どんなに栄華を誇ったイベントでも、マンネリズムと無縁であり続けるのは不可能に近い。ましてや、「専門家からは高く評価されているらしい」「現代彫刻」となれば、率直な意見を述べにくいまま不満を募らせる市民がいても不思議ではない。いや、現代芸術のコンクールを一地方自治体が半世紀も続けてきたことは、驚異である。
 だからこそ、久保田后子市長は、UBEビエンナーレの今後を市民に問うべく「検討会」を設置したのだろう。だが、市民に丸投げしたわけではない。前段階として、重要な事がいくつか行われてきたように思う。
 筆者が接したその一つが、前回展の開会後に行われた座談会。選考委員がパネリストとなり、UBEビエンナーレが現代彫刻界に果たした役割、国内外の優れた作品が常盤公園に設置される意義などを、市民の前で分かりやすく語った。中でも、文化功労者の澄川喜一選考委員が「僕は宇部に育てられてきたんですよ」としみじみと話されたインパクトは大きかった。実際、澄川委員は、1965年の「第1回現代日本彫刻展」から、若手ながら招待出品者として抜擢され、頭角を現した。我が国を代表する彫刻家の生の声に、うなずきながら耳を傾けていた聴衆の様子が印象的だった。
 答申が出る以前の回から、現地制作する出品者の作業を手伝ったり、市街地にある彫刻作品の清掃活動を行ったりしてきたサポート隊の存在も忘れてはならない。

 今、宇部市のイメージキャラクター(ゆるキャラ)は、ベレー帽を被った石彫の「チョーコクン」。市内の小中学校で、現代彫刻への関心を高めてもらうことを目的にした「彫刻教育推進事業」もスタートしたという。我が町の歴史を知り、子供たちが現代彫刻に誇りを持つ契機になる仕掛けは、驚くべきスピードで広がっている。
 今回の25回展も、さまざまな人々のサポートを受けて実現したことも多いことだろう。前年に行われたマケット(模型)審査では、「市民との協働の可能性」を期待されて選出された作品があった。その作品は、これまでの「野外彫刻展のノーマルな選考方法」からは外れた路線であったかもしれない。だから結果はどうあれ、展覧会までにどんな「経過」があったのかを聞きたいと思う。教訓を重ねることが重要だから。「考える会」の提言により発足した、「UBEビエンナーレ世界一達成市民委員会」の活動にも注目したい。
 悩ましい課題もある。その一つが、設置場所との調和だ。この半世紀で、野外に設置される美術作品は、場所の固有性を熟慮して制作する「サイト・スペシフィック」であることが主流となった。だが本展の場合、コンクール開催期間は環境の良い常盤公園の野外展示場で披露された後、入賞作品の一部が市内各所に設置されてきた。場所のことは制作時に考慮されていないから、作品によってはやや気の毒な環境になった事例もある。継続的な管理をするためには、安易に数を増やせるものでもない。
 サイズ制限も、エントリーする彫刻家にとってはやりにくい事だろう。もっとも、「文化の冬」とも揶揄されるバブル崩壊後を生きる芸術家には慣れっこかもしれない。毎年、コンクール会場の中心で屹立する向井良吉の代表作「蟻の城」を目にするたび、破格のスケールに現代彫刻家が物理的に迫れない悔しさを、私自身が感じてしまうのだ。
 それでも、戦後彫刻史を固めてきたそうそうたる面々の作品が、各所に設置された常盤公園は、美術担当記者にとっては心躍る景観だ。まさしく歴史の一端を築いてきた証明となっている。
 新進もベテランも、国内外から平等にチャレンジできる、数少ない国際公募展である意義も大きい。矛盾をはらんでいるとはいえ、「サイト・スペシフィック」だけが尊重されれば、実績のない若手彫刻家が起用される可能性はうんと低くなるはずだ。
 海外に向けた発信方法には、まだ改善の余地があると考える。国内でも、芸術家飛躍の機会が「コンクール出品と受賞」とは限らなくなった今、より多くの若手彫刻家に興味を持ってもらう仕掛けが必要といえる。逆に言えばのびしろも大きい。
 新生UBEビエンナーレのさらなる発展を、見届けたいと思う。
(毎日新聞社東京本社学芸部記者)

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