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土方先生に棒げる

第9回現代日本彫刻展 (1981)

著者 : 上田 芳江

 土方先生!
 ありがとうございました。第9回 現代日本彫刻展のオープニングを、今、行うことができました。
 白い薔薇の花を胸につけられた先生のお姿に、この会場でお目にかかることが出来ないのは淋しいことでございますが、やむをえない先生のお都合で、テープカットの鋏をお持ちになれなかったオープニングは、過去にも一、二度ありましたので、セレモニーの場に先生のお姿が見えないことは淋しいことには違いありませんが、多少の時間のずれを計算すれば、やがてこの会場にかけつけて下さるような気がいたします。お姿はまだ見えなくても、先生のお心は、きっと、この会場のどこかに、もう馳せつけていらっしゃると思われるのでございます。
 第9回 現代日本彫刻展は、例年通り、先生の企画で開催されたのでございますから。主催の責任者である先生が、欠席なさる筈はありません。
 今回の野外彫刻展は、宇部市の彫刻運動がはじまって20年目になります。
 この秋は、宇部市が市制を施行して60年目になります。
 宇部市の彫刻運動は、市民パワーで発足しました。勿論、行政が推進力になります。
 この、市民の文化運動と、自治体の周年行事の節目が重った今秋を、わたくしたちは、意義ある年にしたいと念願しました。彫刻運動の育ての親である先生の意気ごみも大変なものでございました。
 昨年の秋、鎌倉で、第一回の運営中央委員会を持ちました。先生の健康状態には、憂いの翳りが見えましたが、先生は強いて平常を装いながら奥様に援けられてご出席なさいました。
 テーマを決める時、先生はわたくしの顔を見ながら、「緑の町と彫刻」はどうかな、とおっしゃいました。わたくしは、胸の熱くなる思いでございました。先生の眼は、わたくしを劬って下さっているように見えました。
 水に映った星影のように、ふくらんで、キラキラと輝いておりました。先生の、温もりに甘えかかりそうになったわたくしは、次の瞬間、キラリと光る先生の眼の光りを見ました。
「初心を忘れてはいけない」
 先生の眼は、そう言っていました。
 宇部の彫刻運動は、戦後の渇きのなかから出発したのでした。瓦礫のなかから燃えあがった市民の生命力が、今日の町をつくったのでした。
 焼け爛れた町に、市民は最初に花を植えました。それから樹を植えました。樹木の茂みが道路に蔭を作るようになって彫刻を置くことを考えました。
 花は一年勝負です。樹木は、何十年も、何百年もの生命を持っています。或日、ある時、風に乗って自ら種が飛んで来て根をおろしても育つことができます。こうして成長した自然の樹々のなかに、人間が、仏像や、隣村との境界の碑や、都への里程標などのモニュマンを置きました。そこに生きていた人びとの、生活の証しでした。われわれも証しを置こう。
 彫刻運動をはじめた時の人びとは、おぼろげながら、こんなことを考えておりました。20年の歳月は、わたくしたちにいろいろなことを教えてくれました。
 花は、いのちの不思議さを。
 緑は、心の安らぎを。
 彫刻は、住む人の連帯意識を。
 わたくしたちは、この町に住んでいた市民の証しを、のちのちの人たちに残していかなければならないことに気がつきました。
 町に彫刻を置く運動という次元の高い運動にとり組んだのは、恐れを知らない田舎者の暴挙であったかも知れませんが、とにかく、今、宇部の町には70点余の彫刻の市有財産があります。野外彫刻展などという望外の催しも出来るようになりました。この仕事をここまで持って来るには行政の熱意は言うまでもありませんが、この運動に参加した人びとの異常なまでの献身があったと思われます。
 町の緑化にはじまった新らしい町づくりのなかでは、彫刻運動は必ずしも順調な進展とばかりは言えませんでした。樹木と、彫刻の競合でお互いが自己を主張し合う論議もありましたが、結果は、相手の仕事熱心を賛えあって妥協するのでした。殊に、展覧会場になる常盤公園は、公園関係者の檜舞台なのです。一木、一草を気にするこの公園で、公園係の手で会場設営がなされることを知っている人は多くはないでしょうが、先生は、その最も深い理解者でございました。
 搬入作品が決定して、設置の位置が決まるまで、公園係りの職員は中央に出かけ、連絡をとります。美術評論家、彫刻作家、建築設計家など第一線で活躍しておられる先生方の間を走り廻っての準備で心労も多いことと思われます。この運動の起爆剤の役割りを勤めた人は、宇部市の図書館長であった美術評論家の岩城次郎氏でしたが、事業の青写真が出来たばかりの時点で物故してしまいました。強引なまでにこの事業の推進をして来た星出市長と、河合教育長も前後して故人になられ、為す術を知らない素人のわたくしたちだけがとり残されました。消えるかに見えたこの運動の火を燃えあがらせて下さったのは、先生をはじめ中央委員の諸先生方でした。こちらの窓口には、否應なしに若い吏員の相原幸彦が立たされました。相原吏員は、岩城次郎氏の指令で動いていたものが、司令塔を失ったのでした。
 相原吏員の苦労は大変だったと思います。しかし先生に近づくことで彼は大変な勉強をしたのでした。叱られたり、怒鳴られたりしながら、彼は成長しました。
 「相原君、君はもう美術評論家としてセミ・プロ級だよ」
 ある時、先生が眼を細めながら、相原吏員にこんな言葉をかけておられるのを、わたくしは聞きました。星出市長が故人になられた後、西田竹一、新田圭二、二木秀夫と、三代の市長が続きますが、どの市長も、先代から引き継いだこの仕事を貴重な遺産として大切にしておられます。公園係の職員も、いろいろ交替しましたが、前任者の業績を一歩も後退させない意気込みが、わたくしにはよく見えます。
 今年の正月、青山斎場で営まれました先生の告別式に、ひっそりと佇んでいる相原吏員の姿を、わたくしは見つけました。彼は、現在は公園とも彫刻とも関係のない部署に配置されております。公的な立場で参列していないことはわたくしによく分りますが、休暇をとって、東京まで出向いて最後のお別れをする彼の姿に、わたくしは、先生と彼のもう一つの絆の強さを見せられた思いでした。
 セミ・プロにまで育てられた美学者土方定一先生にお別れを言うだけでなく、文学者、詩人、土方定一にさよならを言いに来たのだと思いました。彼も詩人だったのでした。美術を手がかりにして、詩人土方定一に近づいていたのでした。「君、詩集を出しなさいよ。弱気じゃ駄目だよ。臆病じゃいけないよ。」
 先生から、こんなこと言われていた話を、わたくしは聞いています。
 土方先生!相原幸彦が詩集を出しました。
 あふれる抒情をもりこんだ立派な詩集を。あの時、青山斎場にひっそりと佇んでいた彼は、先生に、出版のことを誓っていたのだと思います。
 思い出が、いろいろとわき道へ誘います。叱ったり賛めたり、感情の起伏の烈しかった先生、いや、それよりも役所仕事の嫌いであった先生、役所の仕事を阻む縦割り行政を批判しておられた先生なら、とりとめもないわたくしの饒舌をお許し下さると思います。先生は、宇部市の彫刻運動を通じて、芸術への道は、役所がこしらえた道だけでは通じない、ということを教えて下さいました。地蔵様の前でおしゃべりしたり、供物を頂いたり、道端の小川で水を飲んだりする市民がみんなで作る道でなければならないことを教えられました。
 宇部市の運動エネルギーもここにあると思われます。この運動には、不自由な行政の縦割りがありません。図書館長が企画したり、婦人団体が台石を運んだり、公園係が芝生をとり除いたりして進んでいるのでございます。「町ぐるみ」という言葉そのままの歴史づくりでございます。
 この町の彫刻運動は、いま、いろいろな方面にひろがっています。文化団体や、教育、福祉団体までが、自分たちの運動の節目を彫刻に語らせようとしております。
 展覧会の季節になりますと、わたくしは、彼岸花の咲き乱れる田園風景を思い出します。あれは何年の展覧会のときでしたか思い出せませんが、オープニングに先生のご家族がおそろいで来て下さったことがあります。今は大学生になっておられる坊っちゃんやお嬢さんがまだ小学生の頃であったと思います。時間を割いてご一緒に萩にでかけたことがあります。坊っちゃんを自動車の助手席に乗せて、わたくしが後に居りました。野面は彼岸花の花ざかりでした。都会育ちの皆さんにはご満足の頂ける風景でした。殊に、好奇心の旺んな坊っちゃんにはたまらない感動のようで体を乗り出したり、大声をあげたりのはしゃぎようでした。先生や奥様の注意も効目がありませんでした。見かねたわたくしがお守役に廻って、ようやく静かになった一幕がありました。「あなたはお守りが上手ですね」先生にほめられて大笑いになりましたが、この幸福そうなご一家のお伴をして、彼岸花の咲き乱れる田園を走りながら、わたくしの脳裡にはこの時、或る人物の幻影が泛んでいたのでした。
 そのひとも、今は故人になられましたが、幼い頃父親に死別、母親は子どもたちの生きる道を探してやらねばならなくなりました。まだ小学生になったばかりのその人も、母親の膝下を離れて萩から宇部の禅寺へ小僧に行くことになりました。
 「萩から宇部に来る道には彼岸花がいっぱい咲いていた。紅い彼岸花のなかには、どこまで行っても母親の顔がついて来た」
 わたくしは、こんな話を聞いていました。宇部から萩へ通じる田園の道を走りながら、素晴らしい両親の愛情に包まれて育っている幸せな子どもたちと、小学校の勉強道具を抱えて、寺にはいって行く孤独な少年のことを想っていました。わたくしは感傷に浸っていたのでした。
 その孤独な少年は、やがて功なり名遂げて故人になりました。縁故の人たちがこの人の胸像を作ることになりました。土方先生のお力添えを頂かねばなりません。
 秋の深まった日、わたくしは鎌倉に伺いました。彫刻は、もう一体、女人像が欲しいのでございました。宇部短期大学を含む学園の創立者で、わたくしには大切な恩師でございます。
 すべてを土方先生のご助言、お力添えにすがるつもりで出かけたのでございますが、わたくしの足を、一途に鎌倉に走らせたのは、あの時の、彼岸花の思い出がそうさせたのだと思います。
 女人像につきましては、先生は即座に、「柳原義達さんにお願いしよう」とおっしゃいました。
 もう一体の、孤独な少年期を通って来た人については、しばらく考えておられましたが、「向井さんがいいな」といわれました。制作を是が非でも向井良吉先生にお願いすることに決まりました。あの時、先生のお口からもれたお言葉は、わたくしには神様の声のように聞こえました。
 この時のわたくしのお願いごとは、宇部市の彫刻展とは関係のないところの話でございました。野外彫刻展の運営委員長としての土方先生のお指図でなく、彫刻を手がかりとして20年おつき合いを頂いた土方先生が、宇部市民に贈られた置土産だとわたくしは思います。
 彫刻の持つモニュマン性を、先生は形にして見せて下さいました。
 本当にありがとうございました。
 こんなお願いをして間もなく、柳原先生と向井先生は、土方先生のデスマスクをつくらねばならなくなりました。
 涙の泉は、渇れることを知らないようでございます。
 彼岸花が咲きました。あれを舞台にして、今年もまた、どこかで、人間のドラマがはじまることでございましょう。
合掌
(宇部市緑化運動推進委員会理事長)

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