UBE BIENNALE

野外彫刻展アーカイブ公開プロジェクト

アーカイブページでは 、第1回宇部市野外彫刻展(1961年)からの野外彫刻展について、開催概要、出品作品、会場風景などを公開しています。出品作品のページでは各作品のデータベースにアクセスできます。

また、宇部市の野外彫刻展の変遷を下記にウェブコラムとしてまとめました。アーカイブページ、彫刻データベースとあわせて、ぜひご一読ください。

ウェブコラム

UBEビエンナーレの変遷

市民運動を契機とした市の彫刻設置事業が、当時の神奈川県立近代美術館副館長であった土方定一や彫刻家の柳原義達、向井良吉らの賛同を得て開催に至った、宇部市の野外彫刻展。1961年第1回宇部市野外彫刻展から2024年第30UBEビエンナーレ(現代日本彫刻展)を1. 開催形態の模索、2. 登竜門としての発展、3. 市民参加の促進、4. 開催要項の整備とこれからの4つの期間に分け、その変遷をたどる。

1.開催形態の模索

宇部市の野外彫刻展が始まったのは、1961年の第1回宇部市野外彫刻展だ。この展覧会では、阿井正典、井上武吉、木村賢太郎、小谷謙、昆野恒、佐藤忠良、建畠覚造、田中栄作、戸津侃、中島快彦、舟越保武、向井良吉、毛利武士郎、森堯茂、柳原義達、レオン・ターナーに出品を依頼し、それぞれが17点を出品した。野外展示場だけでなく、屋内にも展示場所が設けられた。

続いて1963年には公募を実施し、名称も第1回全国彫刻コンクール応募展とした。124点の応募から34点の作品が、東日本地区予備審査(820日)と西日本地区予備審査(99日)で選ばれ出品された。受賞作品は入選決定審査(99日)で決定した。(年表1、2)会場では、コンクールの応募作品だけでなく、招待作家(木内克、木村賢太郎、辻晉堂、堀内正和、舟越保武、水井康雄、向井良吉、柳原義達)の作品も展示された。

1965年には、名称が第1回現代日本彫刻展に変わった。公募は行わず、招待作家44人がそれぞれ12点を出品し、その中から、審査(930日)で各賞が選ばれた。(年表3)その後1971年の第4回現代日本彫刻展まで、招待作品から受賞作品を選定する形式が続く。

1973年の第5回現代日本彫刻展では、1963年以来初めて公募が実施された。第1回全国彫刻コンクール応募展での実物審査とは異なり、模型審査で出品作品が選定された。東京の日本通運晴海埠頭支店内で52日に行われた審査では、314点の応募から11点の作品が選ばれた。この11点の公募作品と招待作品19点が野外彫刻として展示され、その中から受賞作品が選定された。(年表4)彫刻展開幕前の914日から19日には、実物制作となった11点の模型と実物制作には至らなかった模型6点の優秀作品が宇部市芸術祭の一環行事として市役所集会堂で展示された。(年表5

5回展から始まった、公募作品と招待作品の中から受賞作品を選定する形式は、出品数を変えながら、2007年の第22回展まで続く。

2.登竜門としての発展

野外彫刻展で賞が設けられるようになったのは、第1回全国彫刻コンクール(1963)からだ。宇部市の野外彫刻展と交互に開催される神戸須磨離宮公園現代彫刻展[i]1968年に始まり、1971年の第4回展では、神戸須磨離宮公園賞が新設された。1975年の第6回展では、東京国立近代美術館賞、京都国立近代美術館賞、東京都美術館賞、群馬県立近代美術館賞、兵庫県立近代美術館賞、北九州市立美術館賞が加わり、主催者の内の一者である日本美術館企画協議会に参加する美術館から賞提供を受けた。これらの賞は買上げ賞として始まり、多くの受賞作品が各館に所蔵されている。現代日本彫刻展に応募した作品が受賞し、国立や公立の美術館に所蔵されるというモデルケースが示されたことで、作家の出展意欲や受賞作品の注目度向上につながったと考えられる。ただし、1980年に土方定一氏が死去し、第10回展(1983年)で日本美術館企画協議会が主催から抜けると、それ以降、買上げの有無は作家と各館の協議によって決定するようになった。第11回展(1985年)以降は、各美術館の賞が徐々に減少するとともに、各館に所蔵される作品も少なくなっていく。

一方で、19876月に宇部市緑化運動推進委員会[ii]がサントリー地域文化賞を受賞し、その副賞である賞金100万円が第12回展(1987年)の特別賞として設けられた。第13回展(1989年)では山口県立美術館賞、第14回展(1991年)では、下関市立美術館(植木茂記念)賞が新設され、宇部市制施行70周年・野外彫刻30周年記念賞も設けられるなど、依然として盛り上がりがみられる。加えて、第12回展では公募部門の作品を対象に奨励賞として授与されるテレビ山口賞が新設、第14回展では実物制作に選ばれる公募作品数が例年の10点から15点に増えた。また、制作助成金と賞金が増額され、第14回展の公募では128点応募数が増加している。

6回展(1975年)から第14回展の間では、美術館の名を冠した賞と公募部門対象の賞の新設、助成金・賞金の増額、実物制作の作品数の増加など、新進作家育成の機運がみられる。

3.市民参加の促進

1991年61日にときわ湖水ホールがオープンし、1993年の第15回展に向けて、これまで東京で実施していた模型審査が宇部市で行われるようになった。公募から本展までの期間が短いというこれまでの懸念を解消するために、模型審査の実施時期を半年早め、本展開催年に行うのではなく、前年の19921120日に実施した。宇部市で模型審査を実施することによって、審査後の応募全作品の一般公開が可能になった。第30回展(2024年)現在も応募作品展を実施しているが、第15回展がその始まりである。一次審査・応募全作品の展示と二次審査を隔年で実施するようになり、市民が野外彫刻展に触れる機会が増えた。(年表6,7

17回展(1997年)会期中には、初めて大賞受賞作家によるアーティストトークが実施され、内田晴之氏が自身の作品について参加者に解説した。(年表8)続く第18回展(1999年)でも、大賞作家のアーティストトーク(大賞作家國安孝昌アーティストトーク「宇部から宇部へ」)が開催された。(年表12

18回展(1999年)公募展での新規の試みは入選した作品の校区展示会である。一人でも多くの市民が彫刻に親しめるようにと企画された。作者に返却した本展進出作と壊れやすい物を除いた入選作のうち18点を展示し、各地域のふれあいセンターを巡回した。(年表10)実物制作では、國安孝昌の「湖水の竜神」の制作に山口大学工学部などの学生5人がアルバイトとして参加して初めての公開制作が行われた。(年表11

18回展(1999年)会期中には、市民参加への試みとして第17回展時に試行された「私の好きな模型作品」と市民賞が正式に実施された。「私の好きな模型作品」は、公募展(年表9)の来場者投票で、上位の模型を1点30万円で買上げるもので、総票数は2387票、入賞は「水辺にて(お兄ちゃんと一緒)」274票、「切る」180票、「空へ、地へ」175票だった。入賞点数や購入額は回ごとに変化があるものの、第23回展(2009年)まで実施され、選ばれた模型11点は、宇部市のコレクションとなっている。市民賞は本展来場者の投票(年表13)で選ばれた上位3作品を入賞とし、記念品を贈呈した。会期終盤には市民賞授賞式、アーティスト交流会も実施された。総票数2224票(756人)、上位3作品の得票は「SEED 増殖」379票、「Re-Creation323票、「湖水の竜神」267票。市民賞は第24回展(2011年)から1点になり、模型買上げ賞となった。歴代の市民賞受賞作品は、実物が12点、模型が7点、市に所蔵されている。

このように、市民参加のための仕組みやイベントが急激に多くなるのがこの時期だ。野外彫刻展や市が所蔵している彫刻への市民の理解を求めて企画されたと考えられる。

4.開催要項の整備とこれから

19回展(2001年)以降、要項の規定が明確化していく。これまで、一人(一グループ)の出品点数は明記されていなかったが、第19回展の公募から、「一人(一グループ)一点・未発表作品に限る」と要項で定められた。第20回展(2003年)の公募では、これまでの出品作品が大型化していた傾向に対して、展覧会後はときわ公園だけでなく市内へも作品を設置していくことを考慮して、作品サイズの上限が要綱で定められた。サイズの規定は、4tトラック(積載サイズ=長さ600㎝、幅195㎝、高さ280㎝)で搬送可能なサイズ(石材など比重の重い素材を使った場合は10tトラックの使用可、ただし大きさは4tトラックサイズ)となり、模型審査でも、模型サイズ(50㎝四方)について厳しく審査されたようだ[iii]

公募展になってから初めて外国からの応募があったのは第17回展(1997年)で、ベルギーとアメリカから応募があった。その他、海外在住の日本人作家や、日本在住の海外作家からの応募もあり、国際的なコンペティションになりつつあることがうかがえる[iv]。第21回展(2005年)では、海外から、トム・オール(Tom ORR, アメリカ)、ピョートル・ツフォルドフスキー(Piotr Twardowski, ポーランド)が、公募作家として本展に出品した。公募参加の海外作家が実物制作に選ばれるのはこの時が初めてだった。

このように、以前から海外からの応募はあったが、第22回展(2007年)からは英語版の要綱も作成し、国際コンペティションとして公募を実施した。公募作品と招待作品の中から受賞作品を選定したが、第16回展(1995年)から第21回展(2005年)までは、招待作家が10名、公募からの入選が10名だったところ、第22回展では招待作家が5名に半減し、一方で公募からの入選は15名に枠が増えた。

23回展(2009年)からは名称に「UBEビエンナーレ」を使用するようになる。招待作家制度は廃止され、公募で選ばれた20点の作品の中から受賞作品を選定した。国際コンペティションとして公募を実施し、公募作品の中から受賞作品を選定するこの形式は第30回展(2024年)現在まで引き継がれている。

20回展(2003年)時に制限が設けられた作品規格については、第22回展(2007年)では「200×300×400㎝以内、重量10t以内」に、第23回展(2009年)では「200×300×400㎝又は300×300×300㎝以内、重量10t以内」になり、第24回展(2011年)以降、第30回展(2024年)現在まで、「3辺(高さ・幅・奥行き、台座を含む)の合計が900㎝以内、総重量10t以内、10tトラック1台で運搬できる」となっている。

25回展(2013年)では、野外彫刻の出品作品数が20点から18点に、第28回展(2019年)からは、さらに15点に減少した。

また、第28回展(2019年)では新たに、設置場所を指定して作品を公募する「プロポーザル部門」、「アーティスト・イン・レジデンス部門」が設けられたが、第28回展のみの試みとなった。第29回展は、新型コロナウイルス感染症のパンデミックの影響で1年延期し、公募・一次審査が2021年に、本展は2022年に開催された。第30回展(2024年)では、ビエンナーレ(2年に一度)形式としての開催が最後となった。

本文でこれまで見てきたように、宇部市の野外彫刻展は、様々に開催形態を変えながら継続されてきた。応募の方法や展覧会の実施方法が変化することがあっても、宇部で野外彫刻が見られるという事実は、これからも変わらない。次回展からはどのような野外彫刻展になっていくのか、より多くの人々に楽しみにしてほしい。

学芸員 山本結菜 2025.3.14

文中で参照している年表はこちらをご覧ください。

賞の変遷について詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。

 

[i] 1995年の阪神淡路大震災の影響による延期を挟み1998年の第15回展まで続いた。

[ii] 1966年に宇部市内の様々な市民運動を統合して発足した。

[iii] 2002年11月8日ウベニチ

[iv] 「公募展になってから初めて外国からの応募が三点あった。ベルギー在住のルーマニア人彫刻家(四六)の二点とニューヨーク在住アメリカ人彫刻家(五〇)の一点。このほかアメリカ・サンタモニカとニューヨークに在住の日本人彫刻家がそれぞれ一点ずつ、日本在住の台湾人二人、イスラエル人一人、カナダ人一人が一点ずつ申し込みをするなど国際的になってきた」(1996年11月6日ウベニチ)

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